(3)空即中の根拠を追えば

 六世紀後半と言えば、中国では天台が活躍し、日本では聖徳太子が我が国に正式に仏法を樹立して活躍した時代です。竜樹以後この六世紀頃から中観派は分裂して論争を始めます。続いて七世紀へ入ると、それぞれ月称と清弁とを代表者として大論争を続けて、中観派は混乱に陥ります。

 「『中論』の註釈家は七十家居た」と『止観』に在ります。大(おお)分けすれば二派でしょう。小分けしたらどの位なのか見当が付きません。これはそれ程インドでは中観派が栄えた証拠でもあり、分派抗争をした証拠でもあります。月称は応過論派・清弁は独自論派でした。

 月称・清弁両者の争いに就いては、一方的にどちらが正しく・どちらが正しくない・とは言えないでしょうが、大勢としては仏護系の月称の方が正統派・と言われた様です。この月称は後期インド大乗仏教史上に光彩を放った立派な人です。清弁派は、言語にだけは自性を認めたので、過(とが)に堕る・と月称派に責立てられました。言語は他者が作ったもので有為性仮有無自性だからです。

 史書には、七世紀前半にハルシャ(国名)が北インドに大帝国を礎いたが、インドに四つの大帝国が出来て、十二世紀末迄戦乱が続いた・と在ります。月称・清弁の頃のインドの社会は歴史的な変動期に有り、戦乱が在ったり、又貿易関係から西側の人や文物が流入したり、社会が相当激変していた様です。

 その月称よりもずーっと以前の事ですが、兎に角不思議な事に、議論が行詰ると新しい説が出て来るのは何処の世界でも共通の様です。こうして唯識派が登場して来ます。それは四世紀半ばの頃の事です。有部が行詰って中観・唯識両派が登場しました。

 同じ道理で・別の派からすると、中観論者同士がお互いに議論し合って・自分の方が正統だ・という顔をするのを傍から見て居て、それが只の混乱にしか見えなく成って来たのではないでしょうか。

 有部の混乱の中から、仏道修行をして行く上に於いて、悟るのは自分なのだから・という点から行って自分の心理に目を向け、自分の心と外界との関係はどう成っているのだ・という様な<研究の必要性>の気運が次第に高まり、<唯識>という学問が芽を出して来た・と思うのです。後世に中観派が混乱すると唯識派が増えるのも成行というものでしょう。

 上座部での<識>は、理論(五蘊説)としては掲げたが自覚の方は浅かった。彼等での識は外法の<色法>に待した側面として捉えられていて、識そのものの構造分析という面は余り強くはなかった様ですね。

 識の究極は自覚に在ります。立場毎に色々な識が説かれていますが、唯識論式に言えば、第七識迄は<七転識>と言われるのです。これは、転ずる識・即ち識が転々としている心理的な状態を現しています。

 では第八識は転じないか・と言うと、迷いから動じないのです。が、第九識に対しては転ずるのです。ここ迄が迷い、無明の領域です。悟りの仏慧が加わると第八識が転じて転識得智に成ります。八識迄の唯識派ならば第八識中の染法分が迷いに当り、第八識中の浄法分が第九識に当ります。 

 こうして、兎に角、第九識だけが悟りの根本浄識・という事に成ります。こうして世俗の迷識から仏法勝義の悟識へ、然も識の根源へと、空仮中という反省判断の出所としての識に就いて、心理面を深く掘下げて行った・と言えましょう。『中辺分別論』の様に唯識派でも中道を言うのです。

 中道論の展開のなかで、竜樹の思想が既に漢土へ渡ってしまってからの事ですが、この展開のなかで慧文や南岳の占める位置はどの様なものでしょうか。

 <中>というものを当時の漢土の思想界で正しく中たらしめたのは、天台宗の始祖・慧文禅師です。その基礎は途中を飛ばして竜樹に求めて好い訳で、三百五十年の隔りが在るとはいえ、南岳の師・慧文は竜樹に直結しています。慧文は『大智度論』に依って<一心三智>の妙旨を証得し『中論』に依って空仮中三諦の深旨を悟った・のだそうです。

 そうすると、殆ど無師独悟な訳ですね。慧文は慧聞とも言い五七六年頃の北斉の人でしたので、台家では北斉尊者と尊称している・との事です。円悟大師とも敬っています。大乗を弘めて、当時・教化を競う者は居なかった・と在ります。

 その慧文は誰から習ったのか。殆ど無師独悟・というのが真相に近いのでしょう。法脈の上では、天台は南岳大師から<漸次・不定・円頓>の三種の止観を相伝し、その南岳は慧文禅師に仕えて<一心三智>の極意を相伝し、その慧文は竜樹の論に依って竜樹に帰命した・と『止観』の序章に書いて在ります。慧文禅師の詳しい事蹟は伝わっておりません。不明の儘です。著書も残っておりません。

 南岳大師の方は事蹟明白です。十五出家、後に慧文に帰依。三十四歳の時、邪義を破して悪論師に毒を盛られ、五年後に又毒害に遭い、後に送食途絶五十日に及ぶ等、法の為の故の留難の多かった人です。天台に伝法後も非法の衆を呵責し続けて六十三歳の寿を完うしました。『大般若経』と『法華経』とを説いて、時の宣帝の帰依を受けた人です。著書(口述)も『大乗止観要門』『安楽行儀』等十一余が残されております。

 『止観』にも「南岳の徳行は思議すべからず……円を証して大小の法門朗然として洞(ほがらか)に発し給う……法門は世の知る所に非ず、地を履(ふ)み天を戴くも高厚を知ること無し」と讃えられております。

 この慧文と南岳との両大師が<中>を中たらしめた・と言いますが、中というものの位置をはっきりさせた・という事は、どういう事でしょうか。

 この時代に成りますと、『大集経』に示されている<正法千年>が過ぎて、もう<像法時代>に入っております。ですから漢土の仏法は概ね像法時代の仏法な訳です。という事は権大に始まり実大へ進む時代だ・という事です。従って竜樹時代とは変って、有論にしがみ着いていた上座部の徒は居ない・という事です。

 ですから、時と機とが揃って・<中>を説くべき時代が来ていたのです。こういう潮流の中で、慧文・南岳の時代迄に、仮とか空とか中とかいう説き方は、ばらばらには皆当時の人の頭には入って知っていた訳です。仮令(たとえ)その解釈の仕方・知り方が多少ずれていても、兎に角一応その名前は知れ渡っていたのです。

 それを<一心三智>に従って<空仮中の三諦>に纏めたのが慧文・受継いで広めたのが南岳・大成者は天台・という事ですね。この意味で三人が<中>の位置をはっきりさせた・と言える訳ですね。

 そうです。そして先程挙げた『止観』の序に在る通り、この三諦論が一念三千の円融三諦論である事は確かです。その元祖は竜樹でして『止観』正観章に「中論に説くところの不可思議の一心三観なり」と在る通りです。一念三千迄来て一心三観の実義が明らかに成った訳です。

 それ迄・一心三観とは『般若』の法門だ・と思われていたのですね。所が実は、それは上辺(うわべ)だけの話であって、実義の方は『法華』の方に在った・法華の法門だった・という事ですね。これは一代五十年一切経の脈絡を知らないと判り得ない事です。

 天台迄来ますと、竜樹の実相空を深めた妙空を用いて、次第の三観から説き出して円融の三諦に至り、仮に即して空仮中・空に即して空仮中・中に即して空仮中と相即円融三諦を説いています。それでも尚且つその教迹さえも破法せよ・でないと止観を成就する事は出来ないぞ・と迄言っているのです。相即円融すれば、この空は最早・般若実相空を突抜けて、自行化他に亘る<妙空>です。

 その天台の場合ですが、天台は円融三諦を説けば宜しいのですから、態々(わざわざ)次第の三観迄説いたのは煩わしい・と思っていました。然し四句分別に注目して考え直してみると、成程そうする必要が有ったのだ・と思えました。仮−空−中の反省順序を正す必要が有った訳です。

 第四レンマはそれだけでは<但中>です。亦無亦有の<亦無>が前を承けた<非無亦無>である事が解らなく成ります。これに対して、円融三諦の<中>は仮に即して中・空に即して中・中に即して中なのです。これだと<非無亦無>がはっきりします。

 これは何を意味しているか・と言うと、世俗の「諸行無常」から始って、その世俗は究極の真実に非ず・と反省否定し、勝義の空へ入って更にその次の段階として再反省の中を悟ります。この立場から、世俗安立の化他の為にもう一度世俗へ帰って来るのですね。

 そう成ります。それで、帰って来た時の世俗は、対象は同じであっても、説かれ示されている意味・見方が違っている訳です。だから<一に非ず異に非ず>で、確かに世俗というものは一つしか無いのだけれども、然しながら出発点の世俗と・勝義から振返った世俗とでは異りますから、<不一不異>−<空>、又<一即異(亦一亦異)・異即一(亦異亦一)>−<中>です。

 そういう風に、世俗にも片寄らず・勝義にも片寄らず、両方を結合させて然も自らの悟りも寂せられず動ぜず・というのが円融の<中>なのですね。世俗からは隔絶した仏の悟り・ながら、その悟りが現出する舞台は純世俗しか無い。働く場所は俗世の<所(しょ)>……。

 仲々ややこしい訳で、<次第>を踏まえないと<円融>のからくりは判りません。そして<一即異・異即一>迄来ると、レンマが第四迄来ている事に成ります。『止観』での次第・不次第は行法に約して教えていますが、そこから教法を汲取って見れば教法上でも立派に通用致します。

 中の悟りの不寂不動という事は非常に奥深い事ですね。

 空に寂せられてしまうと、雨降りに家へ閉寵ると・降ってる外へ出たくない様な気持に成ってしまいます。外の裟婆世界は所詮・五濁の雨の土砂降りなのですから、悟りの安全地帯に居たく成る訳です。これでは化他安立が出来ないでしょう。すると自分の世俗さえも安立しなく成ります。

 不動の方は有に動ぜられない事で、世俗へ立戻って来て世俗有に動ぜられたら「縁に紛動せられて正法を修する事を妨ぐ」(『止観』)に成ります。心地を九識に・修行を六識に励め・が出来なく成ります。不動は中諦の確信不動という事です。他人が有無二辺を持って来て強(し)いても動じない訳です。

 所で、四句分別は真偽二値の二値論理でも・様相論理の多値論理でもない所が面白いですね。然も弁証法でもない……。

 確かにそうです。真理値の面から言ったら<複合三値論理>に似ている・とでも言えば良いのですか……。「有無の二道は本覚の真徳」と言った伝教大師の真意は、全く容易ならざる内容を含んでいる・と思います。

 有無二道――有無二辺・とは全く別物――が「本覚の真徳」だという事は、存在判断(特称判断)や推理叙述判断の様な<偽徳>ではないぞ・という事でしょう。本覚真徳は仏様の真徳ですから、この「有無二道」は境法などではなくて、仏様の智法としての・反省の肯定否定・<思量の有無二道>という事です。全く容易ならざる事です。

 するとこれは縦型四句分別の有無だ・という事です。論理の領域・知性の領域・合理の領域で単純に割切れるものでは全くありません。一人称非合理領域です。従って三諦も全く同様です。

 やはりそういう事も予想される・という訳で<単の四句>の他に<複の四句・具足の四句・絶言の四句>という様に、究極迄徹底的に考えた人が居たのでしょう。兎に角・縦型四句分別は一人称非合理領域で使用する論法ですが、論法面以外での側面としては、認識論・存在論としての四句の役割も考えられます。法界の五大(地・水・火・風・空)の認識等がそうです。地は堅性……の様にこの五大は<知る法>であって<在る法>に即した智法です。化学の地水火風空ではないのです。

 この五大の有無・空・中の場合、四句分別が表現している表現成体(対境)は、感覚世界の中でも外部感覚(眼根等の肉体五感覚・五感)という独立成体ではないのです。心内の法感覚なのです。

 法感覚と成れば、具体的には九界・十界という事に成ります。反省四句が通用するのはここしか在りません。九・仏の五大……。

 五大見も仮名我の我心と外界との関係が安定している(仏界)か否(九界)かを判別する平衡感覚・詰り内外(意根と五境)との関係の感覚・脈絡の感覚・諸根感覚の全体的な調和感覚の世界を対境とし表現成体としているのです。ですから仏様の己心の法なのです。この面でも四句はやはり元・源は反省論法に成っているのです。感覚の平衡度を反省して仏界という調和を求める訳です。


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