6 中道論――慧文・南岳・天台・伝教

(1)中道に待する相待の仮説――<空>

 『中論』の「聖諦の討究」第二十四に次の一句が在ります。これを前出『梵文邦訳中之頌』から引用して見ます。

 「縁起であるものを凡て吾々は即ち空であると説く。

 その空は相待の仮説である。これがまさしく中道である。」

この短い一句は『中論』の中心中核の句と言われ、空仮中の三諦を論ずる場合には、常に出発点ともなる重要な句ですが、その意味する所は必ずしも明確ではありません。場合に依ると、この句を典拠として<空イコール中>を主張する人も居りますが、如何がでしょうか。

 表題以外には『中論』の全句を通じて「中道」が出て来るのはこの一句だけなのです。この句では例に由って「諸行・諸法」という現量は省略されて「であるもの」と比量で示されています。

 「縁起であるもの (註 これは比量)を凡て吾々は即ち空であると説く」

 「縁起であるもの」は現量ではありません。比量の方です。そこでこの上半句は比量をメタ現量とした反省の仮空相待の論なのです。世俗の仮法(比量)と勝義の空諦(思量)との相待論なのです。

そしてその次に

 「その空は相待の仮説である。これがまさしく中道である」

と成っております。この「……は相待の」というのは<何と>「相待の」なのかが明示されてはいませんが、能く読めば直ぐ判る事です。これは中味が二重に成っているのです。というのは、仮即空は、仮の窓口からは判らない。空の窓口からは判るが、判った内容が実は仮説(仮設・途中の設定)である事・は判らない。中から振返って観れば、仮空相待の<仮説だ>と判る・という事ですから

 「空中相待して観れば、仮空相待は仮説だ・と判るではないか」

と言っているのです。ですから文中の「これ」は「空は相待の仮説である」を指し、以下が・空中相待の場合の議論なのです。詰り「その空は相待の仮説である」は二重に成っていて、前の仮空相待と後の空中相待との二つに跨がっているのです。

 こうして、相待しているものが、前半と後半とでは違うのです。この区別を付けないから<空=中>と解釈してしまうのだろう・と思います。この一句を天台は一心三観の依文として特に大事にしています。空仮中三諦という『中論』の結論を、<宗>としてまず冒頭に掲げたのです。

 その点は判りました。

 もう一つ盲点が在るのです。それは、竜樹の立場に立ってこれを読むのか、竜樹論者の立場に立って読むのか・という違いです。厄介な事に、中道というのは論法上では四句分別の第四レンマだ・という事をはっきり書いた文献が無いのです。

 経・釈・論のなかで、経のなかだけではなくて、釈・論のなかにも無い筈です。というのは、古式四句は、一・有、二・無、三・亦有亦無、四・非有非無であって、この第四非有非無は空の双遮レンマ・第三亦有亦無は空の双照レンマ(後述)であり、古式では<中>のレンマ式が無かったからです。

 新式四句ならば空は第三レンマで中は第四レンマで、この点で違っていてイコールとは言えません。空と中とは不一不異の緊張関係下に在りまして、不異不離の辺だけ取ってイコールを主張しては、不一不合の辺を殊更に見捨る事になり、中と空とを言分けている元意の方が通らない事に成ってしまいます。イコールならば空・中・の一方は全く無駄に成ります。

 <即>は敵対相飜の反省を内容としますから、空即中は、空イコール中・という意味とは違いますね。

 そうです。「諸(もろもろ)の法相は所対に従って同じからず」と在る通り、仏法では、一つのものを唯・一つのもの・として局面を固定して見る事をしません。道理上・空に就いても、空に待する何かが無いと空を論じられない訳です。

 ですからこの場合は、前半が仮と相待した空です。それが前半の一句に成っております。その次に今度は、その空と中道とを相待して、相互を表しているのです。中道・と言っても・仮か空かを持って来て相待しなければ現れないのですから・空と相待して現した訳です。

 縁起の仮のものは皆・空だ・と、これで仏法に成る訳ですが、ではその空・というものは、これで終りか・終点か・と言うと、そうではないのです。「相待の仮説である」と言われて、まだ終りではないぞ・と示されている訳です。という事は、空を悟って著空したら本当の悟りには成らないぞ・般若部は空だけしか表には教えていないが・もっと奥が在るのだぞ・という事です。それが中道な訳です。般若部自体が仏の<常説中道>の「空の部」なのですから……。

 「相待の仮説」は古い翻訳では「相待の仮名である」と書いて在ります。翻訳者によって随分言葉の使方が違っています。<仮名>の方が適切な気がします。

 ですから、「縁起であるものを凡て……空である」のこの<空>を、次に「その空は相待の仮説である」と言っているのは、空を、仮に待して相待の仮説である・と言っているばかりではないのです。更に、仮空関係も、中に待すれば相待の仮説である・中道に待すれば相待の仮説にすぎない・と言って、一重奥には<絶待>の説も在るのだぞ・という事を・この余地を含ませてもいるのです。

 こうして、中道というものが心の根底――事物や仮空の根低ではない――に在るから空を説けるのだ・という結論に成っているのです。兎に角、仮に待した空を、今度は中に待して、反省し返して見直しているのです。これは教道での双照行為です。

 逆に中道の方から見れば、空は仮説(途中の仮りの設け)にすぎず仮名である。仮の方から見れば、空は何か究極的な終点実存に見えるのです。少くとも仮諦――頌の場合は世俗諦――よりは程度の高い自覚上の認識として把握される訳ですが、それでも中道から観れば、まだ途中であって仮説である。だから「諸法相は所対不同」なのです。相撲の幕内は十両よりは強いが・三役に<所待>すれば弱い・という様なものです。

 こうして仮と空と中とが説かれている事は明らかなのですが、これだけ見た限りでは<次第の三諦>を説いているだけで円融三諦には程遠い・という感じも致します。<中>という事が出て来るのは標題とこの一句とだけで、あとは皆・空ばかりです。

 文字の分量の差で空と中との鼎(かなえ)の軽重を問うのは見当外(はず)れ・とは思いますが、この論は何処迄も空論であって・『中論』というのは看板だけだ・という考えも無しとはしません。この辺は如何がでしょうか。

 そういうのを「ただ空を見て不空(仮と中)を見ない二乗法界」(『止観』)の人と言うのです。それでは「無辺の為に寂せられ」て不動不寂の中道には遠く成ります。仏・施教の元意は中道しか無いのですから、仏様の代理者の説く所も又中道しか無いのでして、だから『中論』も<空に従(よ)って>八不中道を説くのです。空は中を説く所縁のオルガノンだったのです。ここが竜樹の真意です。

 『般若経』から出て来ても決して<八不空道>ではありません。<八不理道>でもありません。中へ達する手段・オルガノンとしての空の強調である事を失えば、『般若経』も『中論』も死んでしまいます。これらは、説く方から言わせると、双照の立場から照らし顕して建立して言っているのです。手探りで言っているのではないのです。

 そうしますと、段々と・中が根本だ・という事に成って、中が実体化され、その根本である実体的な<中>からあとの空・仮も出て来る・という様に考えられはしませんか。

 そこの所が又問題なのですが、別の所で話しましょう。根本中は各種中に対しての話です。

 ここ迄来ますと、中と初めの仮とはどう関係するのでしょうか。

 それも後で話す事に成りますが、ここでは其の事は説かれていないのです。ここで説かれている事は、「これがまさしく中道である」と、中道という事が施教の根底と成っていて、その上に空諦が説かれているのだ」という主張が『中論』の全体を一貫しているのです。『阿含』の八正中道以来・中道論でない仏法など無いのです。目標は仮世俗の安立で、これが仮中関係です。

 所が、竜樹の立場に立たないで、特に現代の竜樹論者の立場に立つから、中というのは<非有非無>なのだ・竜樹では空=中なのだ・と主張する様な事にも成るのです。でもこれでは違っています。

 天台は<中>を『玄義』で「非有非空」『止観』では「非空非有」と表現しています。簡単に言ってみますと、在来りの仮を反省してみて空を得、得た空を再反省してみて中を得たのですから、反省抜きで空イコール中ではない訳です。空の二重否定の否定は反省・二重反省なのです。空さえも二重反省なのであり、非有非空は、非有で仮を反省し非空で再び空を反省しているのですから、中は再反省の結果到達した所と成ります。

 三諦を論ずる場合は、いづれにしても竜樹のこの一句が土台に成る訳ですね。殊に学問的な論争に成ると、何時もこの一句へ帰って来ます。

 そうでしょう。『華厳』でも『阿含』でも中は在りますが、いきなりこれは中である・という言方で、論理的には何の説明も附けていません。苦楽中道・断常中道・有無中道・無我中道という風で、仮中相待の言方です。

 問題の竜樹の頌(じゅ、しよう)ですが、竜樹から……更に天台の立場から見た場合、中と仮とはどういう関係に成りましょうか。中は非空非不空で有に帰る所ですが……。

 三諦が円融してしまうのです。仮も中なり・空も中なり・中も中なり・と成ります。それから、空という窓口から見ると、仮も空なり・空も空なり・中も空なり・なのです。仮の立場から見れば、仮は仮なり・空も仮なり・中も仮なり・なのです。皆反省操作の上で言われているのです。

 円融三諦の立場から見れば、次第の三観はどういう意味を持ちましょうか。

 諦は観で得た結果です。次第の三観というのは修行上の<慣れ>を得させる為の方法です。これは<行>ですが、元意が判れば<教>にも通ずる事です。教の立場からすると、理解を得させる為に順序に説いた・というだけに過ぎません。現実事象の構造がそうだ・という事ではありません。

 何しろ知らない人に説いて聞かせるには、まず仮から始めて次に空を理解させ・空迄理解出来たら次に中を理解させる・という事で次第に説いただけの事です。三諦の構造が次第に成っている・という事ではありません。

 してみれば、究極の目標は中であって、仏様は常に中道の立場から衆生へ語掛けている・という事が明らかに成ります。衆生は虚仮の塊ですから仮こそが問題です。

 その立場から仏様は衆生へ「まず貴方がたの仮有(現量仮)を反省しなさい」と言っているのですから、衆生はまず仮の反省から始めるのです。これが仮観です。その多くは阿含部で説かれています。数息観とか不浄観とか極く具体的に『阿含』で説かれたものは皆この仮観の一つ一つです。

 竜樹や天台に成りますと、こういう具体的な個別仮観は廃止して、大枠たる全てに亘る<仮>そのものを論法的に反省する仮観に成って参ります。これが三諦の仮観でして、この仮の反省から・そして空へ中へと二重に反省して会得する訳です。非不空非空で仮を照らします。


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