(8)<縁起→無白性>は世法、<→空>が仏法――縁起・無自性・空

 竜樹は『中論』で<縁起−無自性−空>を強く主張した・という事ですが、我々としては<無自性→空>は何となく判り易いのですが、<縁起→無自性>の路線の方は判り難い感じがします。この辺を少し解説してみて下さい。

 信仰者ならばそうでしょう 信仰しない仏教学者ならば<縁起−無自性>の方が判り易く、<無自性−空>の方が判り難いだろう・と思います。空も比量扱いにしている人が多い・と思うからです。<縁起−無自性>は俗諦、<→空>は真諦です。これは大事な所です。信仰しない人としては推理で解ける<縁起−無自性>の方は解き易いのです。

 我々が世俗の中で普通に認めている<一切の有体>(仮有)は皆因縁生起(しょうき)しているだけで、<生じたもの・作られたもの>ではない・というのが『大般若経』迄の所説でして、『阿含』から説かれて来て『般若』で空と示されている所の・釈尊以来一貫した認識です。

 これを強硬に言立てたのが『中論』です。構造的に、そこに諸縁に依って・因と縁とに依って<成立って>いるだけで、生じたり作られたりして有体が現出しているのではない・と言うのです。何かから生じたのでもないし、ゴッドや梵天や何かに依って作り出されて存在しているのでもない。因縁生起しているのだ・と言うのが伝統の縁起説なのです。

 これをアビダルマが正しく理解しなかった・という事は、我々からすると全く不思議でなりません。正しく理解しなかったから、有論に成ったりプドガラ主義が出て来たりしたのですね。

 縁起説を正しく理解してみると、<独自存在>(プドガラ)というものは、結局、世俗常識上での誤認にすぎなく成ります。六師や・各部の一部はプドガラ(個在)を言立て、プドガラ問題は仏在世から大問題だったのですが、縁起体しか無い・となれば、独自存在も自性も有得なく成ります。

 ですから縁起体である一切の有体(諸法)は無自性だ・と言っているのです。『大般若経』で無自性を強調しているのは、何となく、純理だから・という事で主張しているのではなくて、自性を強く主張しているグループが沢山居たからです。釈尊時代に・世間流行の誤りが眼前に在って根強かったから釈尊が経で強調しているのです。

 前には『涅槃経』が「諸行無常是生滅法……」を強調したのは、背後に世間の邪見が大きく控えていたからだ。そこだけ・文だけ抽象して只・理としてだけ取扱っては真意が判らない・という話が在りました。『大経』の「無自性」もやはり同じ事情な訳ですね。

 そうです。経は世上の機に応じて説かれたものですから、説かれた所以(ゆえん)――事情背景――を抜きにして読んでも本当の事・本当の所は判りっこないのです。経文を象牙の塔の中へ押籠めてしまったら金輪際判りません。それをはっきりさせるには『中論』そのものを調べるに限りますから、『中論』の冒頭を出してみて下さい。

 宇井伯寿訳『梵文邦訳 中之頌』ではこう成っております。

   「   中  之  頌

            縁 の 討 究 第一

      不滅、不生、不断、不常

      不一義、不異義、不来、不去であり、

      戯論が寂滅して吉祥である縁起を

      説示した正覚仏に説者中の最上として私は稽首する。

   一、諸の有体は如何なるものでも、何処にあっても、何時でも、自(じ)からも、

      他からも、自他の二からも、更に無因からも、生じたものとして認められるものはない。

   二、諸の有体の自性は縁等の中には認められない。

      自性が認められないから、他性も認められない。

   三、……………………………………

      ……………………………………」

  宇井先生には大変失礼を申し上げる事に成りますが、この冒頭の八不の所の邦訳は四句分別へ の配慮が足りなかった・と思います。「不滅、不生」(以下同じ)と間へ点を打っては非有非無の間へ 点を打つのと同じ事で、折角の四句分別の元意を損ねます。「不滅不生、不断不常、……」とすべき です。

 その事はさて置いて、私達の話の方へ入って下さい。

 当時のインド社会は「世界の梵天所造」説がまだ根強い頃でした。その、一、の中の「生じたもの」というのは、「有為のもの、作られたもの、生れたもの」という事です。「有作」という事です。普通、世俗の常識では、「湯は水から生じ」「人は母から生じ」「植物はその植物の実(種)から生ずる」と、西洋で言う<質料因>の線で考えて、これで済ませています。

 だが、仏様の縁起説では、それは誤りだ・と言うのです。ギリシャ式に言うならば<動力因・機会因>の線……詰り縁起因果の路線で考えないと現実に合わない・と言うのです。ではそれはどういう事か・と言えば、私が下手に説明するよりも『涅槃経』聖行品の文を見た方が早いです。

 「善男子、譬えば眼に(よ)り、色に(よ)り、明(あかり)にり、思惟にり、因縁和合して眼識を生ずることを得るが如し。善男子、眼は『我れ能(よ)く識を生ず』と念言せず、色乃至思惟も終(つい)に『我れ眼識を生ず』と念言せず。眼識も亦復(またまた)念を作(な)して『我れ能く自(みずか)ら生ず』と言わず。善男子、是くの如き等の法、因縁の和合を名づけて見(けん)と為すことを得。

 善男子、譬えば子(み・実・種)に因り、地に因り、水に因り、火(熱)に因り、風に因り、糞(こやし)に因り、時に因り、人の作業(さごう)に因りて牙(め・芽)の生ずることを得るが如し。善男子、子(み)も亦『我れ能く牙(芽)を生ず』と言わず、乃至、作業も亦『我れ能く牙を生ず』と念言せず、牙も亦『我れ能く自ら生ず』と言わず」

この文を見れば「自からも生ぜず」「他からも生ぜず」「自他の二(共)からも生ぜず」「無因(因=よる)からも生ぜず」という関係が能く判りましょう。

 自からも生ぜず・ですから自性(本質)が認められないのは当然です。他からも生ぜず・ですから他性も認められない。これも当然です。大体、他性というのは、自の自性・に対する・他の自性・ですから、そんなのは在り得ない訳です。「無因からも生ぜず」……無因無縁・無縁起で生じたものも無い。これは当然ですから直ぐ判ります。「無因」の因は因と縁との合称です。

 無因生は偶然論ですが、分別以前の無分別体は確かに無因生です。この無因生はカオス(混沌)という事で、現量以前の前知覚です。これに就いては『現代哲学事典』に「一般的に表現すれば、因果連鎖に結ばれない現象群が『現在』を構成する、とは言えるであろう」と記されています。

 その無因生ならば<迷蒙非因非果>の意で・正しい訳です。所が偶然説の無因生は<分別としての説>ですからいけないのです。現量以前(前知覚)の無分別混沌状態の話を、その儘分別の中へ持込んだ所に偶然説の致命傷が有るのです。分別は、明析判明にする為に分別するのであって、その他の何事でもありません。分別である以上は<無因>という考えは通る事ではありません。

 分別としての無因説は、抑も因果を実体として捉えるからです。物事を見る<形式>だ・という事が判っていないからです。

 そういう事です。実体有因説の裏返しです。こういう風に、縁起説の考え方というものは、常に現実に密着して離れない見方・考え方でして、現実から抽出抽象した理論世界を相手取って考える行方ではないのです。無因生説は理走りし過ぎた為に生じたものだ・と思います。

 竜樹の時代にもまだ因果撥無思想(因果は無い・という考え)や因中無果論等という外道説が在って、事象の発生は偶然なものだ・とか、事象の発生は人智を超えており・それへ理屈を附けても始まらない・という投遣りな思想が在ったので、「無因生は無い」と論破したのだ・と思います。

 無因果説に就いてもう少し言ってみますと、<諸の有体>(諸法・一切法)は、縁起事象の無始無窮の流れ・連鎖の中から、詰り・<時空上の無分別>の中から<切取って>分別して立てたものだ・という事を、誰でも忘れ勝ちなのです。この無窮連鎖は因果連鎖として捉えない限りは唯の混沌(カオス)です。明析に捉える以上は因果連鎖なのですから<無因生な有体>など在り得る訳が無いのです。「体は因果に由って顕る」(『止観』)です。これで判明に成ります。因果は能顕の法・体は所顕の法です。体は知られるべき<在る法>、因果はそれを<知る法>です。

 縁起説は理論と現実とを分けない考え方に立っている・という事でしたが、この分けない流儀こそ・インドのそして仏法の思想の一大特徴・と言うべきですね。

 そうです。縁起説も、理論と現実とを綯(ない)合せにした直接把握のレンマ法な訳です。縁起説から進展する仏法の反省世界は四句分別でしか捉え様が無いのです。ですから縁起−無自性−空です。無自性は推理結果での知識・空は反省結果での知識です。

 学校で身に着けた客観癖・分析癖・抽象癖を取払わないと、仏法の一人称世界は判らない……。

一人称世界では特にそうなのですが、事象把握に就いては、縁起以外の考え方は皆虚妄分別(ヴィカルパ。分別虚妄の事ではない)の戯論に成ってしまいます。すると『無量義経』に在る様に「而るに諸の衆生、虚妄に是れは此・是れは彼・是れは得(とく)是れは失・と横計して不善の念を起し、衆(諸・もろもろ)の悪業を造って六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて無量億劫自(みずか)ら出づること能(あた)わず」と成ってしまいます。

 この<虚妄横計>が虚妄分別(ヴィカルパ)で、客観癖・分析癖・抽象癖に執著した<見惑>が邪見を生み、邪見がその侭不善念であって又不善念を生み、悪業造作へ進んで輪廻して諸苦に遇う。

 そうです。見→著→慢→愛→貪です。物事が因縁生起する順序がきちんとしているでしょう。これが縁起説というものです。確実に正しいのです。<縁起−無自性−空>は確実にして一点の曇り無く正しいのです。竜樹こそ正法正師です。天台もそうです。

 人は十界互具しておりますので、輪廻は逃れられない自然現象(自然法・じねんぼう)ですが、輪廻しながら<輪廻苦>からは<輪廻する儘に解脱出来る>という事ですね。それには行業としての<虚妄横計>を廃めれば良い。それには、輪廻は結局<虚妄仮有の連鎖体系>だから<空>で退治すれば良い……。『中論』が教えた所はここでしょう。

 道筋はそうです。でも我々は虚妄横計を廃めたくても思う様には行きません。生活が有系列の魂で、有は「(見の)顛倒(因)に従(よ)って生じ」(安楽行品)で我々を追掛け回すからです。顛倒生の有・これが<虚妄法>果でして、一般に「(衆生は)深く虚妄法に著して堅く受けて捨つべからず」(方便品)です。アビダルマを笑ってばかりは居られません。

 法の<如実>を内容とする<真実>は離虚妄の義で、離虚妄を真実と言う・のだそうです。

 生活は有系列の魂です。どうですか、生活上・他人様から押寄せて来る世俗の偽見・邪妄見……この顛倒見の襲来を追払えますか。でも、自分のそれは治せる筈です。世俗は顛倒虚妄法で出来ており、虚妄法ぐらい真実味を帯びたものは無いのでして、現に仏様は六師達から悪人扱いされ、虚妄法なのだが・そう思込んだ彼等には”真実”なのです。

 仏様としては、その跳返りが又・虚妄法なのに・現実上・極めて真実味を帯びた強力な事実です。例えば九横難等がこれです。ここが<世俗縁起>です。これを論法反省した空・中の双遮双照縁起が<法性縁起>に成ります。法乱の時に当って、竜樹は、正しい縁起論(法性縁起論)を『中論』で釈尊の通りに再建したのです。彼こそ正法正師です。『中論』 は離虚妄を教えて<真実>です


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