(7)言説の仮名と化他の力用

 <縁起>という事は比量ですからこれはまだ俗諦に属します。するとこれは虚妄分別(ヴィカルパ)ではないにしろ、普通は分別虚妄の内だ・という事に成らざるを得ません。

 そこが化様の<化他の力用>というものです。縁起も<言説の仮名>なのですが、その儘実語であって決して妄語ではありません。自性や実体や本質を言立てる哲学説・外道説の方が妄語で、これに対して<縁起−無自性>を教える方は厳たる実語・如来誠諦之語です。ですから凡夫が用いても比量でも<縁起・無自性>等は分別虚妄ではなく・この点・分別の一切合財を<妄分別>として片付ける後期唯識の考えは納得致し兼ねます。<迷って受取>らなければ妄分別ではない筈です。

 衆生は妄分別しか出来なければ真分別(正見)無用・成仏不可能です。私は初めて縁起という単語を聞きその内容を示された時、直ぐに「判った」と思いましたが、縁起−無自性−空と聞かされると、どうやら縁起という事態そのものへの理解からして危く成って来た・という感じがします。

 これは私もそうでした。実際、縁起という事態は簡単な様で、実は理解が非常に困難なのです。何が困難か・と言うと、徹底するのが困難なのです。何処かで魔(無明)に誤魔化されてしまい勝ちなのです。徹底困難の実例はアビダルマが示して呉れました。

 長年学校で実体思想で教育されて来た事と、日常生活、特に言語活動上の生活では、<無意識に実体化した>考え方で話の遣取りをしていますから、直ぐそこへ戻ってしまう癖が付いている為ですね。改めてこの大事な縁起を吟味してみたい・と思います。

 まず現象している法(事態)に就いて考えてみましても、法は縁起(因縁に依って生起)している・という。これは常識で判ります。従って縁起している法……<在る>縁起法は仮(一時的・局部的)和合している。これも常識で判ります。因も果も無常・縁も無常・縁起も無常なり。これも判ります。

 無常が常住している・<知る>縁起法が常住している。これも判ります。従って個々の因・個々の縁ではなくて普遍なる理としての因と縁と(知る法)が常住している。これも判ります。一つの法(事態)に就いて諸因諸縁が有って、その焦点として現出している法の縁起関係を<知る縁起法>が時間的にも空間的にも無窮に推進して止まない、これが法界の真相である。これも判ります。

 その辺迄は特に素養が無くても常識で直ぐ理解出来ます。だから直ぐ「判った」と思う訳ですね。「縁起法は自ら(如来)の作に非ず亦他人の作にも非ず、如来は此の法――知る縁起法――を悟りて等正覚を成じ」(『雑阿含経』)と在りますが、何だ、悟るなどと大袈裟な事ではないではないか・という気がする訳ですね。

 だが、その先へ徹底するのが非常に困難なのです。何処かで実体観という魔(邪見・無明)に誤魔化され易いのです。事実、アビダルマや法相の徒輩は誤魔化されてしまったのです。現に私達の身の回りにもうじゃうじゃ居ります。でなければこの対話を始め様とは思わなかったでしょう。

 まず<因縁>ですが、「因と縁とこれは別物だ」と思いたく成ります。これからして個在主義(プドガラ主義)実体観の一種なのです。個在しているのは・表現した言葉・の方だけです。<因果>に於いては<果>に対すれば<因+縁=因>でして、因縁を因と称し・果を果と称するのですから、因と縁とは二而不二一体で切離す事は出来ません。「因と縁とこれは別物」ではないのです。

 客観の立場で分析した上で言うから因と縁とが別物に成ってしまうのですね。そして別物に成った儘で一人歩きを始める。分けたら合せろ・の方が何処かへ捨去られてしまう……。

 そういう事です。次に「因を助けるのが縁である」――逆に・因が縁を助けてもいる――と言われて、これは正しいのですから、「因に重点が有って縁は軽い補助役だ」と思いませんか。然しこれは実は大変な錯覚なのです。

 信仰ならば信は因・仏様や御本尊は縁・ですが、軽い仏様・など聞いた事も有りません。縁の方が軽くては、結局は因の信も軽く成ってしまいます。因と縁との間に軽重関係など無いのです。これは因が自分の内部に在って縁が外部に在る場合の例ですが、何時もそうだとばかりは限りません。

 という事は、因も縁も自分の内部に在る場合も多く有る・という事ですね。五蘊の色受想行識では<受待想><想待行><行待識>の縦型縁起関係では、内と内との相待縁起でしたが……。

 十如実相に於いては、因(如是因)とは自分の業(如是作)の事でして「心あらしむれば諸業具足す、これ因にして果を招く」(『止観』)と説かれています。縁の方は「業を助くるは皆是れ縁の義なり、無明・愛(執著)等はよく業を潤す、即ち心を縁となすなり」と在ります。結局・因も縁も心そのものの作用に他成らない事が明かされています。外界縁ではないのです。

 刹那一念の心の中に因と縁とが有る・というのですね。一念心という一法なのにどうして因と縁とに分れるのか、その辺は理解が面倒です。

 無明や愛(執著)などは生れ附きのもので本然本有・性具でもありますが、どういう無明・どういう愛を只今持っているか・という・具体的に型取られた無明・愛等は、この仮有なる系列集団有は、自分の過去の業(作業・行業)で彩られて出来た習気ですから、これは本然本有とは申せません。過去の業の結晶です。これが縁で、又只今の業・詰り因を引張っているのです。

 この様に因も縁も只今の一念の所作ですから、別物だ・と分けるのは当を得たものではありません。然も「本末(相から報迄)悉く縁より生ず、縁生の故に空なり」でして、因も縁も個在でも実体でもないのです。全部仮名であって仮りの施設……化導の為の言説の仮名なのです。相・性・体・力・作・因・縁・果・報・の九つは皆「但之れ名のみなり」(『止観』)なのです。

 してみると「名が在ればこれに対応する外的実在が必ず在る」というギリシャ哲学の考えは間違いだった事が判ります。<知る法一般>・妙とか因や果・加える・引く・百・千・等の外的実在は有りません。「知った以上は在るではないか」と言うのは成立ちません。この場合は、過去に因であったものが只今では縁として作用している・という事ですね。

 「因は軈て果と成り・この果は又次の因と成る」という話は能く聴く所ですが、「因は軈て縁と成る、この次には因とこの縁とが仮和合して果を招く」というのは仏法でなければ聴かれない所です。一念心は但之れ名のみの仮名だ・という事ですから、因も縁も仮りの言語施設で実体は無いのだ・空なのだ・という話は能く判ります。

 人心程厄介なものは無いのでして、仮りの施設だ・と言うと科学の仮説の様に思うし、空だ・と言うと不空の辺を見るのを廃めてしまいます。「智者は空及び不空を見るなり」(『止観』)で行かなければ成りません。不空の辺を見るのは中から双照して見ないと出来ない事です。

 兎に角・以上に依って、因も縁起性のものであり、大枠としての<縁>こそ主役である事が判ります。縁こそ主役……これが縁起説なのです。そして縁起説だからこそ、無相・無性・無体・と成る訳です。縁起−無自性−空です。<無>という否定詞は<空>を能く表現しています。これこそ相だ・と特定出来ない相・無常住相・詰り・無相・こそ・本当の相・なのです。性も体も同様です。

 一切法の相性体というのは十如実相の基本です。それが無相・無性・無体では、相性体共無く成ってしまう様で困ります。解説してみて下さい。

 無相は無自相の略・無性は無自性の略・無体は無自体の略です。「そんな無体な……」という日常語用とは違う訳です。これは仏法の語用が俗化したものです。無自相は無自我相の略・無自性は無自我性の略・無自体は無自我体の略・です。従って、無相は無自我相の事・無性は無自我性の事・無体は無自我体の事……こう成ります。

 そこで、「無」という否定詞は「自我」……特に「自」に懸って「自我」(特に「自」)を否定している訳です。相・性・体に懸って相・性・体を否定している訳ではないのです。「相も性も体も無い」と言っているのではないのです。

 ではどんな相・性・体が在るのか……という事に成ります。

 すると、縁起相・嫁起性・縁起体が在る・という事に成らざるを得ません。金輪際これ以外は無いのですから、『法華経』方便品の十如実相の如是相・性・体も、如是縁起相・如是縁起性・如是縁起体なのです。何か、実教の法華迄来ると『阿含経』から始る縁起法門とは関係が無いのだ・という気がしませんか。これは実は大変な誤解なのです。十二支縁起法門とさえ無関係ではありません。縁起説・縁起法門というものは、一貫して最後の『法華・涅槃』迄貰さ通されているのです。 

 「法華迄来ると縁起説は関係が無い」と思うのは、学校教育に冒された頭での、現代的な短絡だ・と思います。然し「文は捷毛(まつげ)の如し」で実際には有得る事です。御書や経文をぼんやり読むだけで、文の中味を玩味しないとこう成兼ねません。

 例えば当体義抄に妙法の体が縁起体である事がきちんと説かれ「真如の妙理も亦復是くの如し、一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る、悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり」と示されておりますが、その場限りで見過すからいけないのだ・と思います。

 その次に「妙楽大師の釈に云く『理性体無し全く無明に依る・無明体無し全く法性に依る』云々、無明は所断の迷・法性は所証の理なり何ぞ体一なりと云うやと云える不審をば此等の文義を以て意得可きなり」と在りまして、妙法法性と無明との相待縁起がきちんと示されています。

 ここには、迷いも悟りも無明も法性も妙法も、全て縁起している縁起体であって、決して個在や実体ではない事が説かれております。「有難い」と感じて拝読しないと判らないのです。当然すぎる事ですが、縁起法は法華に於いても非常に重要な事です。


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