(6)縁起法(諸法・事象)は無自性(無実体・無本質)だ

 四句分別の話と『中論』そのものの話とが混ぜこぜでは、読む人には不便でしょうが、我慢して頂くとして、もう少し続けて下さい。両方並べて話を進めないと、四句分別の働きが判らなく成る嫌いも生じます。

 これ迄、<無常>から始って<縁起−無自性>を経て第三レンマの<空>に至る・世俗から勝義へ・という『中論』の展開を見て来ました。今度は立場を変えて、勝義から世俗へ・という視点から『中論』を見てみたい・と思います。

 『中論』は「正にはアビダルマ・傍には外道・を破す」という事でして、竜樹の場合は、相手が・有論のアビダルマ・と・実体論者である外道・ですから、<実体>とその性である<本質>という事を破る為に、そして有論の実有や恒有や自性を破る為に、経文に在る「無自性」という単語を引出したのでしょう。実有・厳有・ならば自性が有り、縁起仮有ならば自性は無い筈です。

 <実体>は<体>に関してで、<本質>は体の質・詰り<性>・性分・性質に関します。体と性との違いだけでこれは全く同じものです。これに対して<無本質・無自性>だ・と言っているのです。という事は、アビダルマ論師などが言っている「自性」の「自」を否定する意味での「無」なのです。ここ迄はまだ世俗の認識・詰り比量に関しての議論で、まだ勝義ではありません。

 そうして今度は、破って開会して来ると、普通ならば<自性>が浮かんで来る筈ですが、それが『中論』の中には出て来ないのです。「自性は涅槃なり」と転釈されてしまっています。

 有論に対する竜樹の『中論』の中(なか)での答は「縁起より起れるものは依他起性なるべし」という事に成り、個の厳有は否定されております。けれども、訳し方・使方の問題でしょうが、寧ろずばり「縁起性」と言った方がはっきりするのではないか・とも思います。

 縁起の説明は御書にはございませんね。十二支縁起を述べた御抄もお若い時の御自身のメモであって、外へ向けて発表する為に作られた御抄ではない・との事です。

 縁起という事は当時の仏教界では常識だったからでしょう。

 その代り・と言っては何ですが、縁起理法に基いた・カルマの……業因果論の方が大変強調されて出て参ります。これは縁起因果論です。

 御書では<修行因果>の方が強烈に出て参りますが、事象の因果の方も在ります。これは内容としては<縁起因果>であって、西洋のとは違います。因果は縁起の中に内含されているのです。

 因果そのものが縁起関係に依って成立っているのでして、「因あるが故に果あり、因なくば果なし」という縦型縁起法で出来ているのです。縁起因果です。御書では例えば総勘文抄に、諸仏の一大事の因縁うんぬん・と仰しゃって<縁>も<因>も重視していらっしゃいます。

 鎌倉時代は、仏教界が漢土のそれとは違った日本独得の仏教を生み出した時代です。この当時は<縁起>という考えは常識に成っていた・という話でしたが、どの程度のものだったのでしょうか。

 奈良・平安期から鎌倉時代迄、長い期間を掛けて、仏教界・詰り僧侶階級と社会の上層部の一部知識人には、縁起は常識に成っていた・と思います。学問的にどの程度か・は一律化する事は不可能ですが、物事は因縁で生起して遷り変って行くのだ・という常識には成っていた筈です。

 この思想が社会へ一般化して、庶民の間に浸透して来るのは江戸期へ入ってからで、江戸末期迄は縁起は常識でした。「こいつぁ縁起が好い」とか「縁起が悪い」「縁起でもねえ……桑原々々」という類いは、こうした基盤から生れた<日常語用>だったのです。

 この大事な縁起思想が庶民の常識でなく成ったのは、排仏毀釈などをした明治期の文明開化以後の事・政府に依る学校教育が始ってからの事です。そして昭和の只今もそう成っているのでして、これこそ”縁起でもない”事なのです。

 この縁起から無我・無自性・無実体・無本質だ・と言うのは、まだ俗諦の内の議論なのですね。

 そうです。釈尊の時代から始り、竜樹の時代にも蒸返され、その後も何度となく繰返され、そして二十世紀の只今も繰返す必要の有る議論なのです。今では六師の法はナマでは社会には出て来ませんが、代りにそれと全く同じなギリシャ哲学及びその延長上に在る諸思想が、発達した現代諸学の中に忍込んでいて、学校教育を通じて・実体思想は牢固として人心に巣食っているのです。

 個在――実体・本質――真実在……外道

 縁起――無 自 性――空…………内道

この比較論に決着を付けない限りは、『中論』で竜樹が遣った行蹟は、何時迄経っても有終の美を飾る訳には行かないのです。正(まさ)しく現代の問題なのです。

 所で、輪廻をどう理解するか・という問題に絡んで、<無尽縁起>が無視されてしまい、縁起に始りが有る・という考えが窃かに前提されている場合が在る様です。

 輪廻は元々<人間の日常生存そのもの>なのです。凡夫の毎日の生活は輪廻に成っている訳です。死んで生れて生れて死んで……という事ではありません。縁起は無尽縁起でして始りも終りも無い常住のものです。縁起法は横には宇宙一杯広がっており、縦には無始無終に続きます。無尽です。縁起は・事象の在る所に<見られる法>でして、在る法・ではありません。

 縁起に始り終りの在るのは<説明としての縁起説>の方でして、十二支縁起ならば<無明から始り<老死の苦>で終ります。これは一サイクルが終った・というだけの事でして、死んで生れれば又続きます。もう一つ、縁起は一縁起から十二支縁起迄で、十三は無し・と言うのは、理論上の分類の話ですから今の問題には無関係でしょう。兎に角・縁起は・在る法・ではなく<知る法>です。

 現実世界では事象縁起に始りも終りも有りません。空間的に尽果てる<果て>も有りません。若し有る・とするならば<不来不去>という八不の四つ目は成立たない事に成ってしまいます。

 <不来不去>に就いてですが、これに引掛かり出すと、それは形而上学ではないか・という疑問が起って、時間論の問題に成って来ます。時間という事に成りますと、時間幅の無い時間は在りません。時間幅の無い時間はゼロ・セコンドという事に成りますから……。

 それでは<一刹那>というものはゼロ・セコンドか・という事に成ると、幅を設定しなければ成りません。幅が在る以上は<現在プラス過去>ですが、これから<もう無い過去>を差引いてしまうと、やはりゼロ秒しか残らないから「現在は住せず」(『止観』)で<現在>も無い・と言うのです。これは空だ・という事で、理論反省の立場です。時又空なり・です。

 <不来不去>の場合、竜樹の時間論に就いての文そのものは「己去は去らず、未去は去らず、現去もまた去らず」と在ります。

 来るとか去るとか・言うアビダルマ式考えは、時間を何か無形(形而上)実体に想定しているからです。だから竜樹は「去るものは去らない……不来不去だ」と時間の実体化を否定した訳です。実体時間でなければ竜樹に許容されるのです。<業相続を見る形式>ならば良いのです。

 要するに砕いてみれば、現在とは過去・未来に相依相待して成立つ概念だ。過去は過ぎてしまってもう無いではないか、未来はまだ無いではないか、過去も無く・未来も無くて、どうして相待成立者である現在が在り得るか……という事です。

 天台も言っています。「(過去の業に関して)過去も未来も無い……起に即してすなわち滅す、何物か現在ならん、現在すでに無し」(『止観』)。過去無し・未来無し・現在無し、何処に時間が在るか・という議論です。「本(もと)より自性なし・縁に頼ってあり、故に実ならず」です。小乗でさえ元来は「世(時間)に多体無し・法に依って立つ」でした。

 それは「三世実有・法体恒有」を主張する有部のアビダルマ論者に対する痛烈な破折だったのでしょう。

 実有な筈の過去・現在・未来の三時連関がぶっ壊れてしまうのですから……。過現未の三際が無い・という言方で、時間だけの実体時間は無い・三世実有ではない・と言っているのです。現象時間や体験時間の否定ではないのです。業や心と融合った時間は<知り得る>のです。

 世俗から勝義へ・という事で、そういう結論・という事に成りますが、今度は勝義の方から見ればどう成りましょうか。

 勝義から見ればそれで終るのではないのです。勝義からもう一度世俗へ立帰ってみると、計るものを媒介として、又生きている人の生(なま)の時間として知り得る・という型で、空なる時間が有る・という事に成ります。「相続すれどもまた常ならず」です。ここで<媒介>が出て来るのです。

 まあ一番端的なものは時計ですが、アナログでは空間を計って、時間を計った・と称しています。奇妙な事です。<知る法>たる時間を人為で<在る法>化しているのです。

 昔は時計は無かったから、太陽や月の運行を朝昼晩見て<時>というものを感じ取ったのでしょう。仏法では<記憶>です。日蓮大聖人に成りますと「一念の心中の理なり」(総勘文抄)と仰しゃって<事>とは仰しゃってないです。<事>は心の方です。<時>は縁起事象の<相続>を・特に<業相続>を見る<形式>なのです。<形式>ですから理であって事ではない訳です。<在るもの>ではなくて<知るもの>です。いや、<知ること>です。

 時間論の場合で明らかな様に、議論はまず徹底的に世俗から勝義へと進むのですね。世俗を「非ず」と否定して進む……。それでやっと半分済む事に成ります。

 「非ず・非ず・非ず……」と皆遣付けてしまうと、自然に論は勝義の方へ進んで行き、そこで勝義ではこうだ・こうだ・こうだ……という様に勝義の理論が並んで来るのです。けれども<究極の第一義諦>だけは、全的には絶対に説けるものではありません。言語道断です。ここの所は、存在論でも認識論でもない内観した体験世界・自覚論の領域ですから説切れません。

 その事を承知の上で、もう一度世俗の言説を用いて、無明の衆生に対する時には、世俗の言説を巧みに組合せて説く以外に無いのですね。

 そうして不可説を可説化するのです。故に結論は「そう説くのは仮名なり」という事で、天台もしばしばそう言っています。「仮名」という方便仮設でありながら、言葉の使方の巧妙さ……善巧方便に頼って悟りの方向へ・修行の方向へと導いて行く力を持っている訳で、これが<化他の力用>です。こうなれば仮設仮名であってもこれは実語であって、衆生が申立てる妄語とは全く違って参ります。分別虚妄ではなく成ってしまいます。これも「不分別を行ぜず」の一面です。


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