(4)無常→縁起→無自性→空→中の構造

 般若部は<空>を説くものですが、これは、阿含部の説を踏まえた上での事です。阿含部で<仮>の辺を説いて<縁起−無実体>を説いただけでは<現量−比量>という俗諦論をまだ脱け出ておりません。空を説かないと本当の仏法に成りません。その辺から掘起してみたい・と思います。

 そうしましょう。阿含部で説いた所は、外道の世俗諦と仏様の世俗諦とは全く違う・という事を示しているのです。両者はまず俗諦の認識からして決定的に別れてしまっている訳です。それは、実体説と非実体説=縁起説との差・という形で顕れます。

 この仏説に従って竜樹の議論はまず<縁起>から始っています。何故縁起から始っているか・と言 うと、仏様が「諸行無常」と言ったからです。阿含部のなかに<三法印>というのが在ります。

  諸行無常……仮  世俗(諸行=現量・無常=比量)

  諸法無我……仮  世俗(比量)(現量諸法は無我なる仮・無我仮は比量)

        ……空  勝義(思量)(比量の無我仮を反省すれば空)

  涅槃寂静……中  勝義(思量)

 仏様は悟って化他に出た初めから中道に居(こ)しているのですが、衆生にはこの事は判らない。 そこで、諸行は無常で・諸法は無我だぞ・はっきりそれを見据えてごらんなさい・という教え方でしょう。無我が解れば寂静なる涅槃(智法。境法ではない)が有るのだ・それを早く体得しなさい・という順序の説法ではないでしょうか。要するに『華厳・阿含』以来一貫して仮→空→中を説いているのです。死の方は般涅槃で・涅槃は生きての上の事です。

 世の中は結局皆無常で、無常であれば必ず変り<実体>が在る訳は無いから、徹底的に<無我>(我=アートマン=実体)たらざるを得ません。この否定された我(アートマン)はバラモン流の実体我で、仏法の我・詰り<己れの呼称>としての仮名我や無我大自在なる中道我ではありませんね。

 実体我は、アイデンティティ(自己同一)が続く事とは違う事です。無我の考えは、何かアイデンティティが形而上学的に続いたりするのではなくて、徹底した無常の連続……無常法が常住する中に、その<一区切>だけを見ると・事象や人間としての・要素上のアイデンティティは続く・という見方です。永遠間では<無>だが、区切の中では<有>で、<区切>の相続を通じれば<亦無亦有>です。自己同一の中味さえも変りながら<変る自同>が相続して行くのです。

 「涅槃寂静」は「言語道断・心行所滅」と同じ事でしょうか。

 道断・所滅のその先です。ああだこうだ・という分別した認識も廃め、なんだかんだ・と言って理論的に説く言説活動も廃めた世界ですから、議論や思考に就いては静かです。顛倒廃止です。

 だから涅槃は寂静です。その心地は寂然不動で揺らぎません。勤行をしていたらちっとも静かではないではないか・と言っても、心地は寂然不動だし・議論や思考に就いては寂静です。

 所で、諸行無常の<無常観>に就いてですが、厄介な事は、今の世間ではこの<無常>という事を、果敢ない・空しい・情無い・と<無情感>として受取ってしまう事です。無常観が無情感に成ってしまう事が多い……。情量化されてしまう……。

 その無情感は生老死の必然などから第二義的に派生して出て来るものなのですが、こうした代表例は『平家物語』の読方で、「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響(ひび)きあり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす」と在る様に、闇雲に読めば厭世感(ペシミズム)と結付いて来るのです。見の常が思の情に摩替(すりかわ)ります。正見の情量化・思惑化です。

 元々『平家物語』 は無常観で書かれたのでしょうが、盛者必衰を強調していますので、世間が無情感で受取ってしまうのでしょう。語り法師の琵琶の寂音が又・この情量を増幅する訳です。無常は元来・善悪無記のものですが、悪い方へ受取り過ぎると<無情>の方へ横滑りしてしまうのです。

 成住壊空・生老死は逃れられない天然不動の理ですし、成程・世の中は放って置くと悪く成るばかりだ・としても、世の中一切は常無しで変るものならば、良い方へ変えたら宜しいでしょう。文化の向上などは良い方へ変えた一例です。自分に就いても、悪しき自分を善い方へ変えたいから信仰もします。無常を悪い方へばかり受取るのは、大いなる片手落ち・というものです。

 けれども仏法を能く見ると、誤解する余地は全く有りませんね。

 この五濁悪世というのは兎に角・無常だ・常無しだ・という事は、世界の一切は変化を廃めない・という事で、西洋流に言えば運動世界だ・という事です。これは現実を正面から見据えた確固たる認識です。いや、それよりも直接把握の正見です。反省の余地を持たなければ偽見に成ります。

 そうである以上<我>というものは無い。一人称の呼称としての我は在るけれども、サブスタンス(実体)という意味での我は無い。人間にも現象界にもその両方へ跨って、実体の意味での我は無い・即ち<無我>だ・と言うのです。在る我は一人称代名詞の仮名我だけだ・と言う。

 この様にして仏様や竜樹は<縁起>の故に<無自性>、それ故に<空>なり・と反省判断した訳です。これは逆には成りません。<空>だから<無自性>で・<無自性>だから<縁起>だ・という風には成りません。ですから無常を出発点にして<縁起−無自性(無我)−空>という構造に成って来るのです。無自性←→空・は成立しますが・縁起←→無自性・は成立しません。

 <縁起説>と<三法印><四諦の法輪>との三つはどの様に結附くのでしょうか。

 縁起説からストレートに三法印の「涅槃寂静」には結附きません。理論認識の上からは<縁起−無自性>とストレートに行けても、又、反省の筋道上では<無自性−空>とは行けても、実際の証道体得の上では<空>を身に着ける修行が必要に成ります。

 そこでまず苦集滅道を説く<四諦の法輪>と結附くのです。人は無常苦に苦しんでいる。世の中は<苦>である。その理由は何か。苦しんでいる当人が<集>めたものだ。そこで、苦を<滅>するには<道>を修行しなくては成らない。こういう因果修行説です。

 ですから<滅>は・苦を滅する・という意味で<涅槃>に成る訳で、この涅槃(悟り)に到達するには<道>を修行しなくてはいけない・と説かれています。その<苦・集・滅・道>の四諦の法輪を能く能く見ると、次の様な<迷対悟の因果の構造>が浮び上って来ます。

()――――滅()       (果)

(世俗)―――道(勝義)      ()

ちゃんと反省構造に成っています。迷悟相待の縁起因果構造です。詰り両対の左の方の<苦−集>が世俗(の因果)、右の方の<滅−道>が勝義(の因果)です。そして<道>というのが分ければ<八正道>(八正中道、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)と八つ在り、この中心は<正見>だ・という結論に成っているのです。最後の正定は最初の正見を成就した状態の事で、主張中心は<正見>です。結論(結)を宗(主張)としたのです。

 <三法印>から<四諦の法輪>、その中でも<八正道>へと結附き、竜樹の頃には上座部全体・特に有部の論というものは、その辺りで低迷していたらしいですね。

 天台は「『中阿含』には真寂の深義を明かしている」と申して居りますが、時代が下って後期有部(アピダルマ)迄来ると、これを果たして会得出来たかどうか判りません。

 十二支縁起の縁起説は<無明−老死>(有の系列)の六道の因縁……迷いの筋道で立て、これ(十二支流転作用)を還滅する為の理法として説いたものですが、これも含めて釈尊の縁起説は『阿含』から一貫して法性一般論であり、これを受けた竜樹の<縁起>は、やはり諸縁起の全部を包括した大乗の基本的一般論なのです。法性縁起論(実相縁起)でして<有の系列>ではありません。


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