(3)同一律の否定・自己同一の否定――不一不異

 八不の概略に就いては済みましたが、もう一度少し戻ってみます。<不一不異>に就いて、一に対するものは二か多か・という問題は明らかに成りました。分解してみると<不一不多><不同不異>の二つにする事が出来る事も判りました。不一不異は非有非無の横型応用例の一つであり、この背後には<百非千非>が控えている事も言迄も有りません。

論理

反省

同一律

不一不異

矛盾律

選択律

排中律

容中律

 所でこの句は論理的には論理三原則の一つ<同一律>に対して、反省論法の中で、同一律に対応する役目を担っている・という話が前に在りました。詰りこの図の通り・という事だ・という話でした。この点に就いて……。前頁の・詰り・………・という事だ・という話でした。この点に就いて改めて吟味してみたい・と思います。

 不一不異は仲々大きな課題を内蔵しているのです。これは応用型ですから横型の論理としての形に組まれてはいますが、元々は直接把握のレンマ法である・という正体を持っております。

 その事はくどくど説明する必要は無い・と思います。

 では直接把握のレンマ法の当体は何か……と事象の中を探してみると、人の生活事象上での出来事は全てこれに当りますが、中でも目立つのは生活を展開している人間本人です。因縁に依って今・仮りに・我れ・と現れている我れ自身です。外側から見ている誰か・ではなくて、一人称世界の当人そのものです。この各人別人ながらの個々の我れが不一不異の当体なのです。

 仏法は根幹は常に一人称の反省世界を論ずるものですから、これは当然です。

 過ぎ来しいにしえ(昔)を静かに振返ってみますと、私も出生以前は、人とも言えない・母体の中の受精卵に過ぎませんでした。赤白二滞を混じた只の卵です。それを持って来て今の私と較べたら、とても同一物件とは思えません。余りにも違いが大き過ざます。これは<不一>です。不一が大・不異が小です。いや、要素的には不異はゼロです。不一は無限大です。

 然しそのカララ(微体・受胎の微形・詰り受精卵)から赤ん坊を経て青年を経て、今の半ハゲ白髪の私に成ったのですから、この五十余年を通じて私という存在は一貫していました。ここが<不異>です。ですから私という存在は、最初――本当は最初など無いが――から一貫して<不一不異>の在り方を通して来た訳です。一も異も流動するのです。流動しないのは・文字の「一異」・の方だけです。

 その不一不異の在り方は、昆虫では一層顕著です。卵→青虫→蛹→飛虫に変態しますから、この四つのモード(様態)を並べて「さあどうだ」と言われると、全く別物だ・としか思えません。同一だ・と判るのは長年の経験で予め判っているからです。この様に生活面では客観の三人称世界でもやはり不一不異です。

 そこで、一人称世界の現実では不一不異で、客観の三人称世界の抽象理の上では「AAであって非Aではない」という同一律が出て来るのですが、これは<不一不異>から上半分の不一を切捨て立てたものだ・という事が判りませんか。<不異>だけ残したのが<同一>という事です。常一主宰 (実体我)詰り・常に同一というのは<考えた挙句の>理上だけの抽象(偽見)でして、現実の生活 事象の中には在り得ないのです。横型推理だけでは

(1) 同一律    AAであって非Aでない

(2) 不一不異   AAならず非Aならず

    詰り      AAでなくてAである

    進めると   Aは非Aであって非Aでない

    詰り      Aは非AであってAである

 こういう事に成り、(1)(2)は、横に並べれば論理としては完全に矛盾して相容れません。

 然し元を探ねれば、同一律は”不一不異律”から出て来たのですから、筋から言えば矛盾する事が可怪しいのです。矛盾する事こそ矛盾なのです。この問題は<縦・横>という視野を失ってしまったら永遠に解けません。神様でも解けません。解く鍵は四句レンマの<非有非無>だけです。

 非有非無の重要性は判りました。恐らく山内得立氏もこの重要性に気付いたから『ロゴスとレンマ』を著作したのだろう・と思います。

 問題はまだ在ります。諸行無常で人間は変ります。カララから赤ん坊へ・そして青年へ・壮年へ・老人へと遷り変ります。生老死です。これは当人が嫌だ・と言っても変るのですから<本人自身>が変ったのではありません。ここが<法>というものです。この<法の支配>は誰も逃げられません。変る因は自分ですが因だけでは変りません。必ず縁を必要とします。縁と仮和合して変化したのです。

 そこで仏法では「果に対すれば因縁仮和合を単に<因>と称する」として、因と縁とを合称して因と呼び、その上での<因果>という関係を認めたのですね。従って仏法の因果は<科学の因果関係>とは恐しく違ったものに成っています。詰り縁起因果です。

 「何かどうあろうとも原因は自分に在るではないか、人を非難するよりも自分を反省しろ」と言うのは、この点で明らかに間違っています。これではキリスト教式です。仏法の因果論ではなく成ります。人を非難する人は・聞いている方に反対解釈を強いている・ので、それには今の言方が効き目を現す・という事に過ぎません。

 この言方は、反省して正報の自分を変えれば依報の相手は自然に変って来る・という点だけは正しいのですが、これは大いなる片手落ちです。仏法の正しい因果論には成りません。因とは<因と縁>の合称である事を忘れては困ります。自分の諸業の諸縁を変える必要が大いに有るのです。

 話を元へ戻しましょう。<生−死>の続きへ入って下さい。

 そこで、<生−死>の変遷を辿ってみると、カララと今の半ハゲ白髪状態とでは、不一不異の<不一>の方がうんと大きくて<不異>の方はうんと小さい訳です。過大と過小です。数学的に言えば〔不一>不異〕です。若しも一分前の状態と較べれば今度は逆に〔不一<不異〕です。然も〔不一≒0〕で殆ど<不異>そのものです。不一がうんと小さく不異が過大です。自己同一です。

 若しも久遠と尽未来際とで較べたら今度は 〔不異=0〕で、全的に・迚も自分が自分ではない訳です。然しそれでも、途中の相続を通じて<不異>が要素内容を変えつつ継続して自分は自分なのですから、ここを捉えて<自己同一>(アイデンティティ)という概念が生じたのです。という事は不一不異の上半を切捨て、下半の<不異>だけを残して取上げた・という事です。それならば下半を切捨て<不一>だけ取る<自己非同一>〔自分は自分でない)も対等に成立する訳です。

 でもこれは誰も承認しないでしょう。自分が自己非同一では困ります。やはり自己同一でありませんと……。でも両方対等だ・と成ると、これは背理に成りますね。背理は上か下かの切捨から生じました。自分は何時も・或る時点での自分・だけで、<常一主宰な自分>は在りませんでした。

 仏法は永遠の生命の常住を説きますが、この常住は<不一不異>を承認した上での常住ですから、外道の常見で言う常住とは訳が違っていて、決して同一視する事は出来ません。外道の常住は<不異>だけの常住です。背理になる切捨から生じた常住です。ですからこの常住も背理です。妄分別・ヴィカルパです。仏法のとはここに決定的な違いが有ります。仏法のは<不断不常の常住>です。

 以上から、不一不異を漠然と捉えては成らない事が判ります。不一と不異とは反比例して大きく成ったり小さく成ったり、反比例の法則下で流動している事態を言表している……これは大事な事ですね。不一不異はこれ自体からして固定していない、流動している。不一不異そのものこそ不一不異なる在り方をしている……。大変な事です。文字は固定しているので文に騙される……。

 不一不異は同一律を否定した一面を持っている事は先に示した通りです。同様にアイデンティティ (自己同一)を否定する一面も持っている訳です。然もその<自同>は不一不異からしか出て来ませんから、自同を肯定する一面も持合せています。<否定かつ肯定>です。第四レンマです。

 して見ると四句分別は、古形四句にだけ拘泥って居ては全く不自由な事に成ってしまいます。古形から”解放”して自在に使うべきだ・という事が判って参ります。

 四句分別にせよ何にせよ、元々<形式>というものは<使用>に従って出来上って来たものです。論理学的には、<意味>を現したいから<使用>して<形式>を整える訳です。出発点では決してこの逆には成りません。必ず<意味>→使用(語用)→形式(構文)です。

 形式(構文)→使用(語用)→意味と、形式を墨守するのはエピゴーネン(追随者)のする事です。新しい酒は新しい皮袋に・です。新使用には新形式を・です。古形四句に拘泥るのは別に大した根拠も無い振舞です。「それでは元から離れてしまう……」。離れて大いに結構・ではありませんか。

 出来上ってしまった一形式に拘泥り捉われると保守主義が生じて、身動きが取れなく成る事は歴史の万象が教えている所です。これが執著(法執)というものです。

 仏法は執著からの解放を説くのですから、四句使用に就いても、古形四句形式からも解放されて然るべきです。私が四句の組替をしたのも、この点への自信が有るからでして、新使用に対しての新形式を考えただけの事に過ぎません。法としての筋は通してあって、出鱈目に使っているのではありませから、大方(おおかた)の承認は得られるだろう・と思うのです。「法を破する事遍(あまね)かれ」 (『止観』) です。

 四句のその点は判りました。不一不異の上半を切持て<不異>だけを残すと、この偽見である世俗見から同一律やアイデンティティが出て来る・という事ですね。古今の・特に西洋の哲学では、この事には言及せずに別の筋から導き出してはいますが、その源を探ねてみれば<不一不異>に帰着せざるを得なく成るでしょう。この事実を否定は出来ないでしょう。

 この厳たる事実を指を咥(くわ)えて見過す手は有りません。理論は常に生(なま)の現実からしか出て来ない……これを忘れては元も子も無く成ります。不一不異で判り難かったら<不同不異>にしてみれば万事はっきりします。

 上半の<不同>だけを取れば自己は自己と異ります。自分は他人に成ってしまいます。これは誰も承認出来ない所でしょう。それなのに上半を切捨て下半の<不異>だけ取って承認して平然としている。これは大いなる矛盾・背理ではありませんか。自己同一・は虚妄法でしかありません。

 これでは外道の常見と全く同じ背理です。自同とは常見そのものです。

 同一律・自己同一・は<不同>という上半切捨の上に成立しました。下半(不異)だけで立てました。下半の<不異>を切捨て上半の<不同>だけを取る事は承認出来ない癖に、逆の場合は承認しろ・と言うのでは余りにも虫が良過ぎませんか。

 不異=自己同一というのは「自己が自己と同一だ・と言うのは、実は何事も語っていない」事なのです。ヴィトゲンシュタインの言う通りだったのです。「上や下を自分勝手に切捨るな!!」と言いたいのです。偽見に騙されては成りません。

 前章「仏法と論理学」の中では、或る出版物記事に就いて、自己同一は比量に過ぎないから、人の歳を貫く自己同一を見ても中諦ではない・という話が在りました。自己同一を捉えて相性体の体と称し・体の自己同一を比量したら中諦だ・と言うのは大嘘なのですね。

 そうです。更に、名体宗用教の五重玄義から見ても、<存在の持続>ならば、名・体・の他に宗・用・教・でも見られる事ですから、自己同一は<実体>でもないのです。詰り、自己同一は、実体か非実体かを教えて呉れるキメ手にも成らないのです。自己同一(存在の持続)という事は、実体の証拠にも非実体の証拠にも全く成りません。「性質の自己同一に留まる所を本質と言う」という定義は不成立です。哲学界での自同実体説・自同本質説はこれも又大嘘です。


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