(2)一に待するものは二か多か

 「不滅不生」の次が「不断不常」で、これは明らかに有部や六師の<断常の二見>に対する挑戦でしょう。二者択一は役立たずだ・と言っています。断常・不断常・不断不常の三つの見に就いての話は、既に『涅槃経』の話の所で済んでいます。そして三番目が「不一不異」と成ります。

 この<不一不異>は、中道から見返して言えば「一異なるべからずして然も一なり然も異なり」という事ですが、この話はここでは省略します。又<不一不異>は<同一律>や<自己同一>(アイデンティティ)を論破するもので、極めて重要な事を言っているのです。これに就いては後述します。

 普通は<一>に待するものは<多>で、<異>に待するものは<同>です。ですから

 「不一不多」

 「不同不異」

となる筈です。それなのに

 「不一不異」

と言って一纏めにしたのは、<一>を以って<同>を内含させ、<異>の方に<多>を内含させた・という事です。詰り<一多><同異>を引括めて<一異>に纏めた様です。仲々幅が広い訳です。

 その<不一不多>は<不一不二>なのではありませんか。『涅槃経』の十不(八不)の文では「非一非二」と成っていた様に、一に対するものは二ではありませんか。

 そうばかりとは限りません。場面に依るのでして色々在ります。<対>で考えずに<待>で考えるべきです。<一対二>に固執したいのは二者択一論者の癖というものです。

 八不の『大般若経』初分の依文では「一切の縁より生ずる所の法は……一ならず異ならず……是れを諸法を学すと為す」と在りまして、従縁所生一切法……諸法が不一不異だ・と申します。一に待して一切法・諸法ですから<一待多>です。<一待総て>です。

 その所生一切諸法はどれでも一ですからやはり<一待二>ではありませんか。

 具体例で申し上げましょう。私個人は所生一切法の内の一人です。私は何時も六道九界を渡り歩きますから<一待六><一待九>です。十界互具ならば<一待十・一待百>です。こういう私を一時点の刹那で捉えると、私は今人界を現じている・という場面では寧ろ<一待一>です。

 竜樹は「八不中道」と言って仮→空→中を述べているのですから、この局面では一諦が三諦で<一待三>です。中道は一で八不は八ですから八不中道は<一待八>です。八不が百非千非(百不千不)の代表だ・という事からは<一待百><一待千>です。

 色心二法の<二而不二>の様に、<一元か二元か>という様な場面や二者択一の局面ならば、一に対するものは二と成り、<不一不二・不同不異>に成りますね。

 そうです。八不(十不)の『涅槃経』の依文ならば、不因不果中道は一因縁が十二因縁ですので<一待十二>に成っております。中道の方は<一待十>です。択一の否定遣蕩です。

 二而不二では一待二、三諦や一身即法報応の三身では一待三、四諦の法論は一待四、五陰や五行は一待五、六根六識は一待六、七転識は一待七、八正道は一正道が八正中道で一待八、九界即仏界は一待九、縁起や十二門論は一待一二、一念三千では一待三千、一煩悩は百八煩悩・八万四千の塵労門では一待百八・一待八万四千、「無量義は一法より生ず」では一待無限……。ざっとこの様に成ります。一義固定化よりも不偏流動性を重んじて下さい。

 それでは<一異>に就いて<一対二><不一不二>には何か特別な意味合は在りませんか。

 それは在る・と思います。この八不は<滅生・断常・一異・来去>を挙げて、一法に就いての両極端な相対二見解――推理見解――を否定しているのですが、この事は、実には<一二>が基本ながら、<一二>の局面を前提にして言われている訳です この限りでは直接には<一二>で述べているのです。そして・反省見解を述べている訳です。

 然しこの事は何も<一待三>ではいけない・とか<一待多>では間違いだ・と主張している訳ではありません。寧ろ逆に<一待三>……<一待多>を容認した上で言われております。これは出典である元々の『大般若経』の依文(前出)を見れば直ぐ判る事です。

 大体、<一異>のこの<一>は、ワン・ツー・スリーの<ワン>を意味するものではない様ですが……。直接には外道などの<両極端な二見解>(二辺見)を否定するものだ・としても、由来する源はもっと深く・そして広く、だからこそ竜樹も八不<中道>と言って、態々(わざわざ)中道を強調するのではありませんか。

 そういう事です。アルファベットはAから始りZで終りますが、始りのAと終りのZで組む……詰り中間を省略して言う<不AZ>の形は<非有非無>の……第三レンマの形で言われておりますが、内容は八不空道ではなくて八不中道だ・と言うのですから「一色一香無非中道」(『止観』)と同じです。不一の一も一色一香の一も共に同じく<絶待普遍>の辺を指しているのです。

 詰り八不の<一>は二・三相対の一ではなくて、<絶待の一>から出て来る所の<全ての内の任意の一>(本地の高次元な全ての一から垂迹した但々の一)でして、この点からしても<一対二>ではなくて、やはり<一待多>です。詰りこの一は<絶待内の一>です。

 第四番目が「不来不去」です。これで八不中道に成りますが、この「来らず去らず」から有名な時間論が出て来る事に成ります。時刻は起滅し時間は起滅しない……。

 それは、時間は不起不滅ながらに起滅するものであって、起滅は来去ではない・という事です。詰りは・時間を<有>と考えるな・実体存在とは考えるな・時間は物事の存立の<相続を見る形式>で存在ではない・という事です。「時間は有にして有ならず(亦有亦非有)」という主張です 物理時間・客観時間を持込むな・と言う叱りです。人々の客観癖を、そんな俗諦で留(とど)まっていてはいかん・真諦で把握しなければ話に成らん・悟りには程遠いではないか・と叱っている訳です。

 八不の概要に就いてはあらまし済みました。以上を総括してみて下さい。

 総括してみますと、論敵(敵者・じゃくしゃ)である説一切有部・詰り<我空法有>を唱えて<有>に著する上座部アビダルマ論師(アビダルマ=法に対する明らかなる論議)達や外道の人達を破折する為に、彼等が大事にしていたものを引繰返すべく、この四つ(四連八語)を立てたのだろう・と思うのです。

 言わば百非千非の中(なか)から、一番骨に成る所を四連八語取上げて代表に掲げた・という感じです。これが八不です。然も中道ですから、八不は<滅生断常一異来去ならずして然も滅断一来・然も生常異去>です。第四レンマ迄進めばこの事ははっきりする訳です。この事は竜樹は充分判って居て『中論』を述べている訳です。只・文面は論破だから言わない・というだけの事です。


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