(11)無分別を分別表現するオルガノン

 円融三諦論は無分別法を分別表現した理論でして、実質は既に竜樹に依って樹立されております。そして実質と名目とを完全に備えたものとして正面に押立てたのは天台てす。顧みれば釈尊の法がそうだったので、その事が二人の手で明らかに成った訳です。

 ここ迄の話の中では、四句分別を竜樹は『中論』では主に論破のオルガノンとして用い、天台は『止観』では主に解行のオルガノンとして使用した・という事でした。この事は四句分別の使用の仕方に就いて、竜樹よりも天台の方が、使用形式上では、一歩進んだオーソドックスな大道を示して呉れた・と言えそうです。

 縦型四句分別に拠って三諦の理論表現根拠を明示して呉れたのは天台です。ですから釈尊から天台迄の間に非常に長い時間が在り、その間に様々な人師論師が活躍しますが、こうした人々が四句分別を用いる場合には、何か<暗黙の了解>といったものが有る様に感じます。

 それは、一つには、推理や叙述の時は応用型で横に使う・という事です。これは誰でもそうしていました。次には、悟りの前に縦型四句分別が有って使うのではなく、悟ったから縦型四句を自由に使う・という事です。仏様はそうしました。悟ってからは竜樹も天台もそうしました。妙楽・伝教・又然りです。

 それに就いては、縦にせよ横にせよ、四句分別は両刃の剣だから<妥当な使方しかしない>という暗黙の了解に支えられて使われている・という事です。この事は、若しも乱用すると妄計の四執・毀法の四謗を生む・と充分自覚されている事で判る・と思います。

 決して無暗に野放図な使方はされずに、事実上・乱用は暗黙裡に禁じられていた・というのは、大いに注目すべき事ですね。

 仏法は直接把握の世界を論ずるものです。四句分別は形式を備えた論法ですが、直接把握に相応しい使方をしなければ成りません。そこで実際に適用するに就いては、表現成体たるべき・言表される事態は、どれでも好い訳ではなく、常に選び取られています。

 詳しくは、事態が置かれている人称の舞台が選び取られている訳です。縦型四句は決して二人称・三人称命題界には使われていません。常に命題を一人称命題界に引戻した上で、空仮中三諦の表現としてだけ使用しています。兎に角・大雑把に言えば、決して妥当な使方しかして居りません。

 何しろ実践に使用する為の、使方在っての論式ですから、過去の仏教徒としては、この四句分別をどうのこうのと突き回して、論理学研究の対象にしよう・などとはしていません。詰り一人称非合理命題の<論理学化>など、初めから無意味無効な事が判っていたからでしょう。この事は無分別への自覚がしっかりしている事で判ります。

 インドでは五世紀に成ると仏護が『中論』の註釈を書き、これを巡って月称と清弁との論争が起ります。これが長い論争の始りで、この為に中観派は衰微して、遂にインドの中観派は無く成ってしまいます。北上して西域やチベットそして漢土にこの派は存続する事に成ります。

 一方、仏護の直ぐ後に唯識派の陳那が出現して新因明を確立します。この一連の人々は、インドで論理研究が盛んに成った時代を生きた人々で、一般世間に認められた推論形式で論書を作った時代の人達です。こうして中観派同士の間でも論争が起き、中観派と唯識派との間にも勢力争いが起った時代です。これは自然発生的勢力争いであって、両派が論争したのではありませんでした。

 この時代は、インドで仏教界が正法を失う時代に当っています。そして直ぐ前の六世紀前半に中国で天台大師が出現する事に成ります。漢土での<三論(中観派)法相(唯識派)久年の争い>はこの時代にインドで種が蒔かれました。自然な勢力争いが漢土で抗争化したのです。

 この月称・清弁の論争を経て、西洋の研究では「その後の人達の努力によっても、結局『中論』の論理化の試みは成功しなかった」と言われています。この事は『中論』がそれ(四句)に依って述べている・四句分別というものの論理化・形式化に依る発展などの・断じて不可能である事を、事実を以って示したもの・と言えそうです。

 『止観』に依ると・『中論』の註釈者はインド全体で凡そ七十家居たのだから、青目(しょうもく・眇目)だけを是として諸師を非としてはいけない・と述べております。七十家も居た・という事は中観派の隆盛を物語る事でもあり、逆に分派と抗争や理解の不充分さを物語る事蹟でもあります。

 竜樹の後継者達が中観哲学の論理化に腐心したがその試みは成功しなかった……という説ですが、これは怪しいものです。彼等は解釈論争をしていたのでしょう。縦型四句で空観や中道観を述べた哲学体系――本当は哲学ではない――が論理化出来る訳が有りません。月称も清弁も論理化など試みていません。これは・自覚弁証法が論理化出来ないのと同じ事です。

 四句分別は論理学化不可能・形式論理化に由る展開不可能、これははっきり断言出来るのですね。

 断言出来ます。ですから四句分別に就いて我々に出来る事は、<四句分別の諸相を見る事>・これだけです。そして、四句分別という”眼鏡”で不定人称命題界の論理を見る・という様な事なら可能です。

 どちらの場合も、反省行の一心三観(空仮中)という基盤の上から四句分別に立向かう・或いは用いる・それ以外の使方はしない(不可能)・というルールを守らなければ成りません。ですから四句分別観というものは、その積りで受取って頂かないと困る訳です。

 言語道断・心行所滅の無分別法を敢えて四句分別で表現しているのだ・という所を忘れてしまうと大変な事に成ります。

 序でに言って置きますと、言語道断・心行所滅・と言うと、言表も思考も心も何も・皆無く成ってしまう様に・皆無化・虚無化して受取る誤解をされ勝ちですが、そうではないのです。虚無所か全的に照らしているのです。(有無)二辺見を滅して有無二道から照らしているのです。

 境界を切取って限られた区別界(分別境)でのみ成立つ論理的言表や概念操作は、手が届かないから自然に消滅してしまいますが、その時に無分別界に顔を出す言語道と心行所とは実践行として在るのです。

 それは何か・と言うと、一念三千という総体者を無分別なる一念の信(心行)で表現する唱題行(言語道)です。これは主語・述語・繋辞(判断詞)を分持っていないで・各語が互いに扶合う表現・こういう無分別表現で表現されている妙法主題の五字七字です。こういう言語道と心行所とはちゃんと在るのです。「迹門不思議不可説・本門不思議可説」です。出離生死の要法です。

 してみますと、六師外道の法は実体論・本質論・二辺見論・有論・である事だけがいけない・という事だけでは済まなく成りますね。

 そうです。仏法は反省自覚法であり、六師の法は推理推論の法で然も実体論だったのです。ですから推理推論で仏法を解釈する者は<内外一致>を説く者で、<本迹一致>論者よりも尚悪質なのです。これが現代に於いて仏法を誤る新六師外道なのです。内外一致は断じて排除しなければ成りません。「妙法は宇宙の根元法」などではないのです。

 そう成りますと、現在凡そ・仏教・を名乗っている各宗各派は愚か、正法を持(たも)つ我々の中にさえも、この<新・六師外道>は居る・という事に成らざるを得ませんが……。仏様はこの六師の法を完膚無き迄に決破した為に九横の大難をお受けに成りました。正法の中へ潜込んで内から法を破壊するのは、これ以上の重罪は有りません。外から破壊に掛かる者よりも遥かに悪質です。

 そう成ります。「もし重を犯ずる者は仏法の死人なり」「鄙極(ひごく)の罪人は羞(はじ)なく耻(はじ)なくして畜生の法を習い白浄第一の荘厳を棄捨す」(『止観』)です。衆を集めて皆(人々)の上に立ちたい・という名誉欲・支配欲が強くて、こういう欲は癡(おろか)だ――癡なるは畜生(観心本尊抄)――と思わない者は<犯重の罪人>なのです。その因行は妙法修行に名を借りた<畜生行>でしかないのです。行果の方は申し上げる迄も無いでしょう。

 その畜生道は『止観』に「もしその心に念々に眷属(けんぞく)多からんことを欲し、海が流れを呑むがごとく、火に薪を焚くが如くして、中品(ちゅうぼん)の十悪を起すこと調達(じょうだつ・ダイバダッタの事)の衆を誘うがごとくなるは、これ畜生の心を発して、血途(けつづ)の道を行ずるなり」と示されています。癡心の内容の一つ・の名誉心の方は「もしその心に念々に・名は四遠八方に聞こえて称揚欽詠せらるることを得んと欲し、内に実徳なくして虚(むな)しく賢聖に比し、下品の十悪を起すこと摩腱提(まけんだい)のごとくなるは、これ鬼心(餓鬼道心)を発して刀途(とうづ)の道を行ずるなり」とございます。

 「非なるもの(心)は簡(えら)び」(『止観』)捨てなければ成りません。でないとその行果は「もしその心に念々に大威勢ありて、身口意に纔(わずか)に所作あれば一切が弭(なび)きて従わんことを欲するは、これ欲界主の心を発して魔羅の道を行ずるなり」という具合に成ってしまいます。天を求めて・天は天でも第六天の方を獲てしまうのです。仏界を希求するのは仏教だけでして、六師や他の一切の宗教は皆・求める所は<天界>なのです。迷妄の衆生が求めている所も又<天>でしかないのです。求めと与えとが一致して、兎角・天・は流行るのです。そして輪廻してしまうのです。

 この六道輪廻を破し・六師の法を決破したから、釈尊は九横大難にお遭いに成られた……。難を加えた六師側は、その因行は三悪・四悪道の因行で、行果・果報は第六天・魔界であった……。 

 そうです。日蓮大聖人亦然りです。「経に云く『悪魔・魔民……等其の便(たより)を得ん』……先生(せんしょう)に四味三教乃至・外道・人天等の法(六師外道の法)を持得して今生(こんじょう)に悪魔・諸天・諸人等の身を受けたる者が、円実の行者を見聞して留難を至すべき由を説くなり」(顕仏未来記)という事で、竜ノ口の首の座・佐渡御流罪・という大難が起りました。六師の因行・行果はこの文で明らかでしょう。そして、こういう行果の者が亦・加難を行ずるのです。正法の中へ潜込んで行ずる事は佐渡御書で明らかです。

 その御文は次の通りです。

 「般泥恒経(別訳の涅槃経)に云く『当来の世・仮りに袈裟を被(き)て我が法の中に於いて出家学 道し懶惰懈怠(らいだけたい)にして此等の方等契経(大乗経の事)を誹謗すること有らん・当に知るべし此等は皆是れ今日(仏在世)の諸の異道(六師外道の事)の輩なり』等云云、此の経文を見ん者・ 自身をは(恥)づべし、今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是れ仏在世の六師外道が弟子 なりと仏記し給へり、法然が一類・大日(房能忍)が一類……は六師が末流の仏教の中に出来(しゅっ たい)せるなるべし……いよいよ日蓮が先生・今生・先日の謗法おそろし・か(斯)かりける者(六師末)の弟子と成りけん……いかになるべしとも覚えず」。

 昔は禅・念・の輩が釈尊の「我が法」の中へ潜込んで加難を行じました。今では<正宗>という日蓮大聖人の「我が法」の中へ潜込んで六師義(実体・本質・推理推論・境法解釈・等)を振回して仏法を壊し・多くの人を弟子にして・正義・正釈に反対しているのです。これが<内外一致>の法門です。こういう・斯かりける者の弟子に成れば・いかに成るべしとも覚えず・恐ろし恐ろし・です。

 想えば・私達が今・正義を述べて六師義と戦わなければ成らないのも決して故無しとは致しません。邪義の人達に遭遇して深い関係を持ってしまい、この六師義の人達から加圧されるのも・それだけの因縁……過去世からの重々の因縁は有るのです。それは、実は私達自身が先生(過去世)で六師義の禅念等を弘めた罪が有るからです。その謗法罪を消すべく・現在・六師義の人法と戦う羽目に成っているのです。後生(未来世)には、今度は今の六師義の敵者(じゃくしゃ)達・詰り・私達の相手側の人達が、誘罪消滅の為に、今私達がしている事と同じ事をしなければ成らないのです。思えば哀れな人達です。梵釈諸神は憐み・第六天衆は歓ぶでしょう。放って置く訳には行かないのです。


トップへ戻る ●目次へ ●←前ページへ ●次ページへ⇒
inserted by FC2 system