(10)転迷開悟は否定(反省)から肯定(自覚)へ

 四句分別は、使用者は六師外道・或いはそれ以前から始って、仏法でも『阿含』以来の伝統的な論法であった・という事です。外道はさて置いて、仏法で用いられた場合、普通の論理学論理や弁証法と較べてみて、今迄話合って来た事以外に、どんな特徴が挙げられるでしょうか。

 論理学論理や弁証法と四句分別とは、本来は東西で別々に発達して来た論法ですから、直接結附けて考えるのは妥当かどうか疑問が残ります。ですが関わりが見出される事も事実です。

 演繹法で有・無というのは純粋に肯定と否定とを意味しております。所が四句分別での有・無というのは、肯定と否定との意味合が、唯それだけでは済みません。それは、専門用語で言う<当分・跨節>(とうぶん・かせつ)の面で有・無が述べられるからです。

 そこその儘が当分、その当分を呑込んでもう一節深く踏込み・二節に跨って働いている事態が跨節です。竹の節で考えてみれば判る筈です。法門の機能に就いてこれを言うのですが、爾前の仮は当分・法華の仮は跨節という風に、仮ならば仮の<内容の差>を教えている訳です。

 という事は、演繹法では事態を横に並べて比較して正しい方を選取る・という二者択一の判断をする事であり、四句分別では、一度肯定した事柄に就いての事態を全的に否定して、縦型に掘下げて行く反省・の判断をする・という事ですね。

 四句分別での肯定・有は、修行者に依る分々の悟りの境域毎の<自覚上の有>を指しています。これは<当分の有(肯定)>です。<否定・無>の方は、その自覚(肯定・有)を更に乗越えるべく更に反省して、もっとその上へ行こうとする。詰り<自覚した有を更に反省し否定して><無>と指しているのです。<跨節の無>です。これは有と無とを横に並べた形で相待しているのではなく、縦に累ねて自覚→反省→自覚→反省と掘下げて行く様に有・無が使われている訳です。

 詰り、この構造が縦型である・という点に弁証法的な所が見られます。けれどもその弁証法が矛盾概念と矛盾律とを守っているのに対して、四句分別の方は矛盾概念に縛られていない点で違っております。

 例えば煩悩即菩提では、この<即>(反省の敵対相飜)で事態の矛盾が完全に解消されている・という話が前に在りました。

 非有非無で空・亦無亦有で中・これらは矛盾概念や矛盾律・排中律の束縛を受付けていませんから、空仮中の三諦や四句分別は弁証法でもない訳です。

 古来の伝統で、四句分別は経文や・竜樹の『中論』や・天台の『玄義』『文句』『止観』で盛んに使われています。この両者での使方はどんな特徴を示していますか。

 経文では『涅槃経』は四句分別の塊みたいです。竜樹の場合は『中論』だけで言えば、これは悟りに基いた論破の書ですから、事理法の諸相を理論表現上・横に並べて縦型四句論法で破って行っています。その言う所は、一つには・世俗の概念は皆・如実在(働きつつある諸法)と一致していない・という事です。これ(四句)に依って概念虚妄・分別虚妄を示しているのです。

 天台の場合は……。

 天台の場合は縦にも横にも使っていますが、要約すると、四教八教の内、化法の四教の浅深を突詰め登って行く解明(げみょう・転迷開悟)の論法として使っている事が多いのです。

 従って、開悟の為の行法の智的態度を如何に取るべきか・という解行の指針を示すのに使っている事が多い様です。詰り、法の浅深に即して縦型に使っております。当分(一応その儘)跨節(再応跨がる)・当分跨節と掘下げて行く使方です。段々と有・無が<重層有・重層無>に成って行くのです。

 仏法では、言語は全て名だけの仮名である・と主張し、分別虚妄・と言って、固定概念は全て虚妄と退けられます。「法の真寂の義を想うて諸(もろもろ)の分別の想い無かるべし」(『普賢経』)と分別は排されます。

 そして分別を絶して無分別の領域へ入るのが仏法の行方だ・と言われます。それでいながら四句分別を用いる・という事は、考えてみれば随分矛盾した態度の様でもあります。この点はどう考えたら好いのでしょうか。

 これは大問題ですから、ここでいきなり述べ尽くす・という事は不可能です。この対話の内容を、全部読終ってから再度読者に考えて頂き、纏め直して頂く以外に有りません。ここでは極く極くの荒筋だけで答として置く以外に有りません。

 已むを得ない事ですから、その範囲で述べてみて下さい。

 まず先に、分別と無分別との関係から申し上げます。「不分別を行ぜず」(安楽行品)で、分別と絶縁してしまうのではありませんが、分別を絶して無分別の領域へ入る・というのは、あらましその通りです。悟りは無分別界に求めるものです。そこは妙法と一体化した実践世界です。

 妙法は勝・信仰者は劣・という勝劣は在りますが、信ずる私はこちら・信受される妙法はそちら・という区別・差別や分別は在りません。現在当処は一体化しておりますから分別が無い訳です。在るのは無上智慧の無分別智と無分別な実践だけです。直接把握の世界です。一人称非合理の領域です。

 この無上智慧の無分別智を、妙法側に見れば境法としての妙法そのものであり、信仰者側に取れば智法としての以信代慧の信力ですね。

 そう成ります。そこで分別・無分別・と言いましても、九界の分別・無分別・と仏界の分別・無分別・とは違います。九界が行う分別は文字通り分別虚妄そのものです。九界の無分別は、九界としてはそれ以上は出来ない無分別でも、八十八使・百八煩悩は生(なま)の儘で残りますので迷いです。迷い・という点では仏法の無分別の名に値しません。

 これは例えてみると、氷砂糖を水に溶かして、溶込まないで水の中に沈んでいる状態の様なものです。分離していますので区別が付いていて分別状態な訳です。全部溶切ってしまえば一如で無分別な訳ですが、九界はそうは成切れない訳です。

 そこが、如とか不如とか如実とか非如とか、又は冥合・不冥合・と言われる局面です。理と事とは違う・とも論じられる所です。

 仏界の無分別だけが本当の無分別で悟りです。この無分別から化導の為に九界へ立帰って来て使う時の分別は、分別虚妄に与同(よどう。衆生のレベル迄トーンダウンする事)して用いる分別ですから、分別虚妄でありながら分別虚妄ではなく成っている訳です。真実です。実語です。

 然も、それでも仏界の無分別に待してみれば、仏界の分別と雖もやはり局限された範囲の事しか言表・伝達出来ませんので、分々の真実・という位置しか占める事が出来ないのです。一命題の説明は原理上では幾らでも出来ますが、無窮の答・というのは実際は有りませんから適当に限定されてしまいます。分々の真実に留まります。これを実語と称して妄語とは区別致します。

 実語・妄語の話は前章で詳しくして在ります。

 分別の限界を主張し・分別虚妄・と言いながら四句分別を使うのは、この化導の面だ・という事を了解して頂きたい・と思います。「声色の近名(ごんみょう)を尋ねて無相の極理に至る」(『釈籤』)為の手段なのです。そしてそれでも仏界の無分別に相待すれば、真実性が限られていますので、やはり分別は著すべきではありません。教理に著すると得道を妨げます。

 そうすると四句分別というものも、結局、仏界の中(なか)でざりぎり詮じ詰めた所は、仮設である事は言迄もありませんね。

 その通りです。但しその際は仮設でもあり仮設でもない。空・中です。法執も法愛もしてはいないのです。悟りは仮名を離れず仮名は悟りを離れず・です。

 仏界から迷いの衆生へ向けて用いる場合は、確かに究極的には仮設ではあっても、だからと言って一意に「施迹の仮設である」と実体的に極付けては成らない訳ですね。指し示された目標を体得すべきですね。

 全て言説で議論する場合は、そういう実体論的な・一意な・極付けの心構えを捨てて掛からなければ成りません。その「である」に再反省の余地を残して置かなければ成りません。それと共に同じく、議論内容を「絶対に真実である」と極付けて一意に受容する態度も捨てなければ成りません。

 何しろ分別は、命題の真偽を問わず、究極結局は皆虚仮であり、究極の真ではないのです。でも化他の相手に対しては、命題の真は真として、是れ真実なり・と主張すべきです。その上更に・実語妄語は厳然として違います。以上の関係が能く理解出来るかどうか・という所が非常な難関です。若しもこの関係に迷ったら・理に迷う見惑です。見惑の儘使って居たら化導に成りません。

 分別と無分別・虚仮と真実との・こうした関係に迷ったら見惑だ・と言われてみると、四句分別を使う・といっても迂闊には使えなく成ってしまいそうです。

 そうです。ですから仏法でも縦型を実際に使った人達は、主には仏様と竜樹と天親と天台だけでしょう。後はみんな真似だけです。仏法の中では古来皆が四句分別を用いて盛んに議論して来た・と言っても、それは横型・応用型ですし、あとの人の名は残っておりません。天台が名異義同である空仮中三諦に再編成して呉れたので、彼以後は我々も三諦で用いて充分に通じている訳です。


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