(9)天台の四句全面受用と日蓮大聖人

 解説用の四句分別の話に戻りますが、天台の場合には、因明の方は使われていない・様に思いますが……。

 天台の場合、そういった議論(因明の話)が在った事は否定していませんが、天台自身が『法華経』の実義や解釈や三観三諦を述べるに就いては、因明を使ってはおりません。因明ではなくて四句分別でそれを言っているのです。因明が分担すべき役割は横型(応用型)四句分別が担っております。

 という事は論理規則を無視した・という事ではありませんし、『玄・文・止観』はきちんと論理の筋が通る様に述べられて整然としておりますが、それに就いては、一貫して四句分別の方が基本に成っておりますね。

 その点は少しも変らず、四句分別の勢力は衰えておりません。然も『法華経』の法門了解をそれで遣っていますから実に見事です。

 円融三諦というのは、四句分別の最も徹底した形・と言うか、行着く果て・と言うか、そう言うものでしょう……。

 我が身に当嵌てみて……天台なら天台の作動一念に四句分別を当嵌て、自ら内観した時に出て来た手段が一心三観でしょう。ですから、天台の場合には四句分別を全面受用です。竜樹の『中論』の場合は<偈>の形で述べられていますから、四句は余り目立ちません。然し天台の『玄・文・止観』は<偈>などではなくて論文形式ですから目立ちます。

 『法華玄義』で天台が<心の妙なる事>を釈した文に次の様に在ります。

 「心は幻焔(げんえん)の如し但(ただ)名字のみ。之を名づけて心と為す。適(たまた)ま其れ有(う) と言うとも色質を見ず・適ま其れ無(む)と言うとも復(また)慮想起る。故に有無を以って思度(したく)すべからず。故に心を名づけて妙と為す。妙心軌(のっと)るべし、之を称して法と為す」(現前作動一念心の説明)。

今この文を、世俗での有無から・第三レンマとしての空・更に第四レンマ中への展開・という点から整理してみると次の様に成ります。「心如幻焔但名字・名之為心」が主部で以下が述部ですが、その述部は以下の通りです。

述部 解   仮(世俗)――有……………適ま其れ無(む)と言うとも

              ――無……………色質を見ず

        中(勝義)――亦無亦有……適ま其れ無(む)と言うとも復(また)慮想起る。

        空(勝義)――非有非無……故に有無を以って思度(したく)すべからず。

    行   円融三諦――絶言四句……故に心を名づけて妙と為す。

        信行観法――菩提――観…妙心軌(のっと)るべし(智法)

                    ――止…之を称して法と為す(境法=作動智法を境法化したもの)

 この文は解行一念心――勝手な一念心ではない――を説明しているのですが、完全に四句分別で説明して居ります。そして、説明は横型の叙述四句で行ってはいますが、教えている所は三観三諦でありまして、これが又・四句である事は言う迄も無い所です。これは代表例ですが、三大部には沢山・色々と多彩に四句分別が使いこなされております。四句を知らないと全く読めません。

 先に挙げた通り「法に在りては四句と名づけ、悟入には四門と名づけ、妄計には四執と名づけ、毀法には四謗と名づく」と在るのは厳しいですが、天台が四句分別に拠って大いに述べている事は明らかに成りました。日蓮大聖人は、四句分別に就いては特別には仰しゃっては居られませんが、当然認めてはおいでだ・と思います。こう理解して宜しいでしょうか。

 宜しい・と思います。但・四句分別は、蔵・通・別・円・という化法四教の<破立の段階>で使われたのですから、超八の円である下種法門では殊更・四句を言立てる必要は有りません。又、末法の機は理論で導かれる衆生ではありません。この二つの理由から、下種法門には四句が表に出て来ない・のだと思います。

 「悟入には四門と名づけ」と在りましたが、この<四門>は御義口伝の「方便品」に出て来ます。「譬喩品に云く『唯有一門』と、門に於いて有門・空門・亦有亦空門・非有非空門あるなり」……。

 四句分別に約して悟入を説いた訳です。各門は、有門=蔵教・空門=通教・亦有亦空門=別教・非有非空門=円教・と成ります。然も「譬喩品に云く」として、「譬喩品」の「唯有一門」を妙法法界悟入への門として、天台がこう釈している・という事を示している訳です。

 御義口伝には続けて次の様に在ります。「有門は生なり・空門は死なり・亦有亦空門は生死一念なり・非有非空門は生に非ず死に非ず。有門は題目の五字なり・空門は此の五字に万法を具足して一方にとどこおらざる義なり・亦有亦空門は五字に具足する本迹なり・非有非空門は一部の意なり」。

 この文の解説は遠慮申し上げますが、四句分別の第三・第四レンマが用いられている事に注目して頂きたい・と思います。

 その他の御書ではどうですか。

 一生成仏抄の「抑も妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり」以下・の御文は、先に挙げた『玄義』並びに『釈籖』の一文を踏まえてお認(したた)めに成った事と思いますが少し詳しく調べてみます。文章としては・『釈籤』の和訳・という形です。

 その御文を挙げてみます。

 「然ればすなわち起るところの一念の心を尋ね見れば、有(う)と云はんとすれば色も質もなし、又無(む)と云はんとすれば様様に心起る、有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず、有無に非ずして而も有無に偏して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名(なづ)くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり」

 「然ればすなわち起るところの一念の心――以上主部・以下述部――を尋ね見れば」

 「有(肯定)と云はんとすれば色も質もなし」これは世俗仮です。仮ですが反省しています。

 「又無(否定)と云わんとすれば様様に心起る」これは・亦無亦有・で反省の立場です。中諦です。

こう観ずる事は中観です。

 「有と思ふべきにも非ず無と思ふべきにも非ず」

これは空諦に入って来ます。非有非無と・こう思う事は空観に成ります。

 「有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず」

これは言語道断・心行所滅への悟入門で、世俗の推理判断(叙述判断)の有無二辺を離れる・という事です。二者択一を捨てます。離二辺見を<寂>と申します。

 「有無に非ずして」

これは空です。第三レンマの非有非無に成っています。双遮行です。

 「而も有無に偏して」

第三レンマから更に反省を進めています。有無ではないのだけれども有無に偏する。現実は必ずどちらかに偏して来ます。この有無に偏する・というのは亦有亦無・又は亦無亦有・という事に成ります。有でもあり無でもある・無でもあり有でもある・という事です。現実がこう成っている・と言うのです。これが双照行・正見に依る建立行・で<照>です。それが、

 「中道一実の妙体」

だ・と仰せです。四句分別そのものを仰しゃっていなくても、第三レンマも第四レンマもちゃんとここに在る訳です。この不可思議に就いて、

 「不思議なるを妙とは名くるなり」

と言うのです。不思議は<絶言>です。<寂照>です。絶言は絶言四句で言語道断です。又、先に挙げた所の、

 「有と云はんとすれば色も質もなし」

の文は、実体論に対する否定(論破)にも成っているのです。

 「無と云はんとすれば様様に心起る」

これは縁起現象を指しているのです。だから、心は実体が無くて・縁起現象心が有るのだ・という事にも成っております。

 「有無の二の語も及ばず・有無の二の心も及ばず」

と言うのは、世俗の比量議論(有無の二値判断・二辺見)では通用しないぞ・という事を仰っしゃって居ります。

 「有無に非ずして」(非有非無)

<空>です。

 「而も有無に偏して」(亦有亦無・亦無亦有)

有無に非ず・という土台を持ちながら、有無に偏して・ですから、これが「中道」だ・と言うのです。第三・第四レンマの反省思量です。山内氏が、第四レンマの真には必ず第三レンマが食っ付いている・と言って居ましたが、全く同じでしょう。

 唯・御書には「四句成利す」(十八円満抄)の様に「四句」とだけ在って、<四句分別>という名前そのものは出ていない様ですね。天台では随分出て来ていますが……。

 四句分別という名の明示は無くても、「四句あり……四に非信非解」(顕謗法抄)の様に四句分別である所はございます。開目抄の「月氏の外道……其の所説の法門の極理・或いは因中有果・或いは因中無果・或いは因中亦有果亦無果等云々」「三には亦有亦無等・荘子が玄これなり」などもそうです。然も三諦を論ずれば、どうしても出て来ざるを得ません。

 四句分別に限らず、御書では、当時に於ける天台以下の常識というものは、どんどん省略されている訳です。縁起の説明なども省略されています。昔に済んでしまった話で、これは、当時の僧侶には常識であった為でもありますし、民衆には理走りした説明では通用し難(にく)かった為でもある・と思います。相手が逆縁の無解有信衆な為です。

 『法華経』の解釈は天台に究まる・と承認されている訳ですから、四句分別という言葉は無くても、そっくりその儘、天台の四句分別に依る『法華経』了解や立義を引継いでいらっしゃる訳ですね。意は御自身のものを用いて文・義は引継ぎ援用された……。

 只その際、確かに引継いでいらっしやるけれども、大聖人の場合には、『法華経』を解釈するに就いて引継いでいらっしゃるのであって、御自身の下種の法体に就いて、四句に由る了解を露わに用いて説明なさる・という事はして居られません。

 四句に依る説明を切捨て、いきなり空仮中だけで述べて居られます。一度・下種の法体が立った以上そういう必要は無い訳です。日寛上人には、「四句分別せん」(報恩抄文投)と・四句の名を挙げて、応用例の型で、四句分別でお述べの所が少しございます。


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