(8)序・正・流通・三段の脈絡と役割

 一代一切経が三段の脈絡を持つ事が明らかに成れば、大乗非仏説は虚説にすぎない事が判ります。この他、現代の学界の諸理解に対して、どういう事が指摘出来る様に成るでしょうか。

 若しも大乗非仏説が正しいのならば、インドの南伝仏教(上座部仏教。現在スリランカ・タイ・ビルマ等に行われている)だけが仏教なのでして、北伝仏教である小乗大衆部の仏教や、竜樹・天親等を始め、中国の天台等・日本の伝教等・その他一切のインド・西域・漢土・日本・の人師論師とその宗徒は全部・仏教徒ではなくて、<外道>でしかない訳です。どう言繕っても<外道>です。

 又、禅宗が依用している『大梵天王問仏決疑経』は偽経ですが、大乗非仏説が正しければ大乗諸経は皆<偽経>にすぎず、仏法に偽せて外道の法を説いただけの<天魔経>という事に成ります。この辺を大乗非仏説を奉ずる人々に問糺す必要が有ります。

 阿含部以外の、詰り『華厳』『般若』『法華』の研究者や『解深密経』の唯識などで深層心理の研究をしている人々、こうした今の仏教諸学者は、仏教研究ではなくて、外道研究をしている事に成りますが、御本人達、それで好いのでしょうか。

 外道研究をしている事に成ってしまう現在の仏教学従事者が、一切経の各部各経に就いて、それぞれ<完結体系><独立体系>である一面だけを認めて、次への<準備過程>である事の面を・認めない・と言うのも、これは寧ろ研究不足の所為(せい)ではないでしょうか。軈ては認める様に成って来る……。

 そうかも知れません。兎に角・現状……今の段階では「諸経は法華への下拵(したごしら)えである」という一面を認めない人が多い訳です。「<下拵え説>は天台独自の教判に過ぎない」と言張る訳です。諸経の役割分担という所を能く研究して貰えば段々と消えて行く・と思います。それには学校教育の過程を考えても判るのではないでしょうか。

 と言いますと……。

 世界共通の事でしょうが、学校教育でも、小学校・中学校・高校・大学・そして大学院の修士過程・博士過程・と在ります。これらは決して横並びには成っておりません。縦に一貫した教育過程に成っています。

 言わば大学院の博士過程が終点の<極説>です。それ以前は、それぞれの分位で一通りに<完結体系>でありながら、然もより上級の過程・より上級の学校への<準備過程>でもあります。極説は小学校では教えません。

 経文も又こうしたものですね……。

 そうです。各経がそれぞれ一通りに序分・正宗分・流通分を備えた<完結体系・独立体系>でありながら、然もより上級への<準備段階・準備過程><下拵え>にも成っているのです。諸経中・法華は<大綱>・諸経は<網目><下拵え>というのは、この関係に基いて言っている事なのです。

 詰り、諸経は<基礎>から<極説の一歩手前>迄の理論を分担していたのです。『法華』は<極説・極理>を分担していたのです。以上の段取りは、各時代に於いても、人師論師も衆生の内なので・仲々見えなかった・という事に過ぎません。

 今の仏教学界では、『解深密経』とか『般若』『華厳』の研究・唯一の原典・と見なしている『阿含』の研究・は盛んな様ですが、『法華経』の研究はさっぱりです。研究は修行ではないにしても片寄り過ぎているのではないでしょうか。

 我々の側からすればそう言いたく成りますが、これには事情が在る・と思います。『法華経』は<十如実相>以外、理論らしい理論は述べていないのです。寿量品の<三妙合論>は超理論です。この事は、研究の対象とすべき哲学的な各種の学理が見当らない・という事です。

 一方、西洋哲学やインド六派哲学などと比較して論じ得る華麗な理論は『華厳』『阿含』から『般若』迄の間に山程在りますから、仏教学として研究する対象にはもってこいなのです。この事情が研究を片寄らせている・と思います。こういう同情に値いする事情も介在しているのです。

 そういう視点からは、爾前の各経は『法華経』に繋っていれば<活法門>だが、一切経の<脈絡>から離れ、『法華経』とも縁を切って・一人歩きを始めたら、即座に<死法門>に成ってしまう……という所は何としても見えない訳ですね。こうなれば各経の宝が宝でなく成ってしまう……。

 そう成りますし、更に、その宝は、反省自覚法を修行する人に取っては宝であっても、研究だけしかしない人には宝も宝ではなく成ります。宝……と言えば諸経と『法華』とには次の様な間柄も在ります。

 それを述べてみて下さい。

 我々の月給は数字になって取引銀行の口座へ入り、それを引出して札やコインにして使いますから、札やコインは宝です。日常はこれで賄いますから、誰でも一万円札・千円札・五百円札・百円玉は宝だ・として誰も疑いません。だが本当にそうなのでしょうか。宝そのもの・ではなくて<宝の値いの信用流通情報>に過ぎないのではありませんか。

 札やコインは大蔵省造幣局で作ります。この段階ではコインも札もまだ宝ではなくて物です。それが、日銀へ納められ、日本銀行という政府機関から民間の市中銀行へ出されて初めて宝に成る訳です。日銀から出た時に初めて宝に成ったのです。どういう訳か・と言えば、日銀には、通貨を裏付ける<政府の信用>が在り、裏付ける準備金という金魂が保管されてもいるからです。

 通貨制度は今では<信用中心>で維持されておりますが、準備金制も並存しております。貿易為替等の対外遣取りで、外為(がいため)黒字分の金(きん)がアメリカ連邦準備銀行に保管されていても、その分……なにがし分に当る金(きん)は日銀に在るのと同じ事に成ります。詰りこうした準備金その他がコインや札を宝たらしめております。

 諸経の中では『法華経』がこの準備金等に当り、札やコインに当る爾前諸経の宝は、準備金等に当る『法華経』に依って宝たらしめられていた訳です。そして一万円札・千円札・五百円札には宝の(価値信用の)優劣――相待の優劣――が在る様に、諸経間にも優劣(相待優劣)が在り、『法華』と諸経との優劣は、それとは質の違った根本的なものだったのです。これが絶待(ぜつだい)の優劣です。

 詰り、インフレ政府下では札が紙屑化する様に、『法華』を離れた諸経は宝である事を失ってしまうのです。「爾前の経は法華経を離れず」で、諸経の分々の得益は、バックに在る法華妙法の力に頼っていて、その投影だったのです。序・正・流通の三段とはこの事を教えているのでして、一切経は一経である事を示し、諸経と『法華経』との脆絡と役割とを明らかにしていたのです。


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