(7)一代説法本来一経

 その意味での<一経>ならば、詰り一切経で<釈尊一代説法経>ならば、この<一経>一冊で何も彼も――根本の根と幹及び枝葉末節迄全て――それこそ何も彼も根こそぎ<説尽くし>ている事に成ります。

 そこです。本来・一経で何も彼も説尽くせるものなら経文は一冊しか無い筈です。然し実際はそうは成っていません。浄土宗の依経である三部経でさえ、説いた時と場合との違いで『無量寿経』上下二巻一部と『観無量寿経』一巻一部と『阿弥陀経』一巻二部との三経四冊に分れています。

 阿弥陀の宗旨が一冊で纏められるものなら一冊しか無い筈です。僅かの浄土教でさえ四冊を必要とする。この事は既にこの四冊間に<脈絡>が在る事と、各冊毎にこの脈絡内で<役割>の分担が課せられている事を明らかに示しています。

 然もこういう狭い<脈絡と役割分担>の中でさえ、それぞれに序分・正宗分・流通分が説かれていて、四冊三部が一つの<完結体系><独立体系>である一面を備えているのです。ですから、ここの点だけを取出せば浄土教が成立する事に成ります。現に・天親が取出して浄土思想を述べ、漢土でこれを邪解して、誤った浄土宗が出来上りました。

 このからくりに従って昔から華厳宗・法相宗・三論宗など、果ては真言宗・浄土宗・真宗などと独立各宗が出来て参りました。昔のインドの上座部・大衆部、中観派・唯識派、果てはその以前からのアビダルマ・有部なども、基本的には漢土での各宗と、在り方は少しも異ってはおりません。

 「インドには各部各派は在ったが、中国の様な各宗は無かった」と言うのは、皮相に捉われて事実を能く見ていない短見です。法華宗・涅槃宗・華厳宗はインドには無かった・と言うだけの事ならば当っています。

 今の学界では華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部のそれぞれに就いて、これらの一つ一つが各自に<完結体系><独立体系>である事は認めて居ります。寧ろこの点が唯一である・かの様に強調されて居ります。これは俗受け仕易いので歓迎されます。

 然し、それぞれが、釈尊五十年の説法の次第に従って、説内容として前の部を受けた上で説かれている事、そして、自らが又次の段階へ受け継がれて行く<準備課程の体系>である・という・もう一つの面に就いては認めず、認めたくない・と言う訳です。仏説別に整理されて経文が出来た原意は無視されてしまっております。

 仏教学は客観の学問ですから、事態を何でも横並べにして観察致します。経文が縦に段々深く成る様に説かれ設けられている事を認めたくない・と言うのは、これは、各経各部を<横並べに並べて比較検討する>科学手法に依る限り、容易には消えない態度だ・と思います。

 所が実際の諸経は、横並べに説かれたものではなくて、仏様の側から衆生に対して、縦に施設された反省自覚法の体系なのでして、一切経そのものが従浅至探して縦に貫かれた<法理体系>なのです。小学校の教科書でさえ一冊が1学期分〜3学期分と従浅至探しているではありませんか。

 一切経は縦に説き重ね積重ねられた教法法典であって、横並べに見世物用に出展されたものではないのです。一切経の法理体系は阿含部の仮諦から始りますが、仮は浅く、空はもう少し深く、中はもっと深く、これらを説いた各経にも、説いた仮・空・中に従って高低浅深・優劣・勝劣が在る訳です。理順としてはそうです。

 今に残されている各経を見ても、一経で何も彼も全部を説尽くせるものではない事は容易に判ります。釈尊五十年の説法は厖大です。迚(とて)も一経や一部で収容し切れたものではありません。当然、四種経一部の阿含部などで収容し切れるものではありません。阿含部は読む気なら一カ月位で済みそうです。判る判らないは別としてですが……。

 そこです。一ヵ月で読めるものなら説く方も聞く方も一ヵ月で済む筈です。繰返して説かないと判らない・としても、これだけを一生五十年繰返していたら馬鹿の一つ覚えでしょう。聞く方だって飽きてしまって、「何だ又か」という事に成ってしまいます。

 大体、数年しか説いていないキリストの説法でさえ大部の『バイブル』に成っているではありませんか。五十年の説法なら『バイブル』の十倍は在る筈ですし、事実、一切経は『バイブル』の二・三十倍は軽く在ります。

 小説だってフィナーレを書いて次に中味を書いて次に出だしを書いたら小説に成りません。ですから一切経は、一経毎に役割分担が在って――全経は仏のその意図を受けて編纂された――次々に前の経の役割の上に説き重ねられた一大法理体系……縦型の一大法理体系である事は明らかです。この事は四種経一部の阿含部を見ただけでも明らかです。人でも頭が下に附いて足が上に附いてはいません。経にもそれなりの順序が在ります。

 阿含部は、『増一阿含経』では<人天の因果>を明かし・『中阿含経』では<真寂の深義>を明かし・『雑阿含経』では<禅定>を明かし・『長阿含経』では<外道を破す>と天台は言っています。必要な特色別に整理されています。

 これが若し<長→雑→中→増一>の順に説かれたものだ・としたらどうでしょう。『長阿含』の<破外道>は只の悪口以外には言うべき言葉が無いでしょう。<禅定に依る事実の裏付け>が無い虚説にしか成りません。<真寂の深義>という破折原理無し・根拠無しの暴言でしかなく成ります。

 それよりも前に、まず・六道の因果に就いての外道諸説に対して、何が正しい人天因果なのか・さえも示す事が出来ません。正を示さずして邪が論破出来よう筈が有りません。<破外道>不成立です。

 詰り阿含四種一部は、釈尊は化導に必要な理の順序に説き、経の編集者も説の順序に編集した訳ですね。そうでなければ奇怪です。

 若しも<雑→中>の順序なら、修行すべき肝心の内容を失って、只坐ってヨーガの恰好をしているだけ、「ハイ、ポーズ」とカメラの被写体に成っているだけの事です。修行など思いも寄りません。『中阿合』の<真寂の深義>を聴聞したから、これを体得すべく『雑阿含』で<禅定>という反省自覚の修行が成立したのでして、決してこの逆には成りません。

 そしてこの<真寂深義>は、その前に『増一』で<人天因果を正しく明かし>たからこそ、仏様の側としても初めて説けた訳です。<増一→中→雑→長>の順序でないと、仏様の側でも説けないし、抑も阿含部四種経一部が法門として成立しないのです。<脈絡>が実に大切で大事な訳です。

 脈絡を失うと阿含一部でさえ成立しない。成立しなければ但の言葉の羅列でしかない。アルファベットの音符行列にすぎない。これでは西洋中世の実念論者の<普遍>と同じ事です。詰りは死法門(しにほうもん)です。仏様は死法門など説きません。

 同様に、脈絡を失ったら、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華(涅槃)部が、どれであろうと成立しない・という事に成ります。各部それぞれ不成立です。全部が死法門です。詰りは一代五十年の全説法が・一切経全部が・死法門です。

 この事から今度は一切経全部を考えてみましょう。『阿含』が会得出来ていないと『方等』も『般若』も理解出来ません。『華厳』−『般若』迄の枝葉の法門が無いと 『法華』も真の会得が出来兼ねます。ここを「法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず是れを妙法と言う」というのです。世法の言葉が無いと仏法は説けませんから両者は離れておらない・のと同じ事です。

 一切経は全部が縦に一貫して<脈絡>を持っており、縦に貫かれた反省自覚用の<一大法理体系>だったのです。ですから、一切経はその全部で縦に順序に<一経>を形成し、<序・正・流通>を備えた<三段構造>を持っていた訳です。

 『爾前諸経』=序分・『法華』=正宗分・『涅槃』=流通分・こういう<一切経の三段>である事は以上で明らかだ・と思います。一代説法本来一経です。

 天台・妙楽に於ける「此の経は唯如来説教の大綱を論じて網目を委細にせざるなり」「皮膚毛綵は衆経に出在せり」「法華は衆経を総括す」「法華経は遍く諸経を括りて備(つぶさ)に一実に入る」は、この<一代>の<脈絡>たる<序・正・流通>の上に言われた事で、決して自宗宣揚の手前味噌ではなかった事が明らかです。


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