(6)爾前の経は『法華経』を離れず

 一般に、一哲学者の著作に就いて<前期思想・後期思想>を論ずるのは、一人の思想として<脈絡>を認めているからです。

 若しも『阿含経』は釈尊が説いて『華厳経』はキリストが説いて『方等経』は孔子が説いて『般若経』はプラトンが説いて『法華経』は天台が説いて『涅槃経』はナポレオンが説いた・というのであれば、こういう一切経には<脈絡>など在り得ません。釈尊一仏の所説ならば<脈絡>が無かったらそれこそ奇怪な事に成ってしまいます。一仏の悟りは一つです。

 その脈絡が<序分・正宗分・流通分>という序正流通の<三段>です。正宗分が、説示された正意の在る所・修行すべき法体の肝心要(かなめ)が述べられている部分です。序分が、正宗を説く為の予備知識・準備段階の部分。流通分は、読んで字の如しで・流れ通わしめる……何を流れ通わしめるか・と言うと、正宗分を後世迄流れ通わせる為に説かれた部分です。これ(三段)は何も珍しい話ではなくて、各経の内部にも在って常識な訳です。天台宗の宗義として特別にこの宗だけで言われている事ではありません。一他の正意・肝心要は一つです。

 諸経には<開経>や<序品>という部分が在って、この開経と序品とが<三段>の<序分>です。諸経の<結経>という部分は三段の<流通分>です。これは経文自体にそう明示されています。当然、序・流通の中間部分が<正宗分>です。

 三段の取方に就いては宗派毎に異説は在っても、三段そのものには異論は在りません。『法華経』ならば、天台宗では、『無量義経』と序品は<序分>・方便品から分別功徳品の半分迄が<正宗分>・それから後の各品と『普賢経』とが<流通分>です。こういう脈絡に成っております。

 それと同じ様に一切経全部にも全部としての<脈絡>が在り、全部で<一経>を形成している訳です。この局面では、『華厳・阿含から般若部諸経』迄が<序分>・『無量義経・法華経・普賢経』の十巻三経が<正宗分>・『涅槃経』が<流通分>な訳です。そして此の事を現在の仏教学界(の相当数の間)では認めない。少くとも認めたがらない事な訳です。ですから条理を尽くして説明する必要が有る事に成ります。

 一切経全部に亘る<脈絡>に就いては、昔の中国の南三北七・十派でも認めて居りました。彼等は一斉に光宅寺法雲の義を奉じて、その一代脈絡に就いて「華厳第一・涅槃第二・法華第三」という勝劣論を主張していました。このほか十派後の法相宗は「解深密経第一」・真言宗は「大日経第一」ですが、これも一代の脈絡は認めた上での優劣論です。日本にもその儘移入されております。

 兎に角・一切経の各経は、釈尊の<悟り>を釈尊が説法した記録として出来たものです。それを、説かれた内容毎に後人が仕分けし整理したから、特色別に再編成したから、現存の経文に成っている訳です。仏語別に纏めたのではなく仏説別に纏めた訳です。ですから各経は仏語ではなくて<仏説>です。アーガマ(唱伝)に忠実で仏語を色濃く残した『阿含』でさえ仏語その僅ではなくて、整理された仏説です。

 大乗非仏説の人でもそれだけは認める・と思います。

 ですから、各経には、仏様の悟りが色々な課題に就いて述べられていて、悟りの示されていない経文など無い訳です。一仏一悟の全体を説くか部分を説くか・の差なのです。

 仮の悟り、空の悟り、中の悟り、応身の悟り、報身の悟り、法身の悟り、六道因果の悟り、九因一果の悟り、刹那一念因果倶時の悟り、断無明の悟り、無明即明の悟り、……、様々な悟りが別々の経毎に纏められていて、一見、悟りは沢山在る様に成っています。然し元(源)は一つしか無い事です。

 一つの悟りから部分の様々な悟りが多様に説かれただけなので、この事を拒否する学者は昔から居りませんでしたし今でもそうでしょう。悟りが一から多へ展開された・という事は、悟りの<脈絡>が切れていない事を示しています。この事は全各経には一貫した<脈絡>が在る事を意味し、そして、各経毎に述べられた悟りの内容に応じて、それなりに各経で分々の得道得益を得られる事を示しています。然もその得道は<分々>なので<成仏>ではありません。成仏は名目だけで中味無しです。

 そう成りますと、大元の<成仏>という<一つ>の悟りは何か・それはどの経の何処に説かれているのか・という事に成ります。これは仏教学者が嫌うテーマですが……。

 先にまず結論を言ってしまえば、この根源の悟りは、刹那開悟で仏界を悟った・という事で、生死・不生不死・時空・自他・一切を貫く己心法界の大法と冥合した境智二法の当体・詰り<妙法>を悟ったこの<悟り>です。自然法(じねんぼう)ですが客観外界には無いものです。

 この悟りの内容を突詰めれば、自分は一体何物何事に拠って仏界を悟れたのか……というその<仏種=根源の種子>です。これは『法華経』寿量品の「我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数」の所にしか示されていないのです。

 天台はこの文に就いて「初住に登る時・已に常寿を得」(『文句』)と言って、九界本因常住をここに明かしたのであり・この文こそ釈尊が仏種としての妙法を初めて指標した唯一の文である・としております。下種妙法を指し示した訳です。

 この文しか無い・と言うのを嘘だ・と思う人は、一切経の全文を調べ尽くして見るべきです。寿量品のこの文以外後は絶対に出ては来ませんから……。この事は勿論私が発見したのではありませんが、さりとて天台の尻馬に乗って言立ているのでもなければ、身内贔屓(びいき)で天台に味方し庇立(かばいたて)て言っているのでもありません。事実だから言うのです。

 事実を事実として言って居ても、大抵の人は「それは法華義に過ぎない」と言って逃げて行きます。

 逃げたい人はそれも自由で逃げたら好いでしょう。結局は仏様に掴まってしまいますから……。孫悟空が観音様の掌(てのひら)の内を”きんとうん”に乗って逃廻ったのと同じ事に成ります。

 法華義に過ぎないかどうか・の点は……。

 この根源の悟り詰り<妙法>は、譬えて言えば水道局の浄水池の様なものです。この水が地下に埋めた水道本管・枝管を伝わって、各家庭の蛇口や銭湯のカランや道路端の消火栓から出て来ます。出口は多様です。浄水池は一つです。末端から出て来る法水は一異(一而異・一にして異)です。

 蛇口よりもカランの方が勢良く出るし、それよりも更に消火栓の方がもっと勢良くより沢山出ます。一切経の各経は蛇口やカランや消火栓の様なものですから、「第一だ第二だ第三だ」と昔から優劣を言っていた訳です。これが諸経の勝劣論です。法門勝劣論です。

 そして、地下の水道本管・枝管は埋まっているので人目には見えません。見えないから無い・と言うのは誤りで、見えなくても在る訳です。この<本管・枝管>が一切経間の<脈絡>です。「法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず是れを妙法と言う」とはこういう事だったのです。


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