(4)解脱用の四句分別と『法華経』

 インドに於いて、四句分別も因明も共に古くから使われていた・という事は、仲々複雑な頭脳の所有者が居た・という事です。インド人は哲学や宗教には向いているし、その思考素質は優秀だ・と言わなければ成りません。

 仏様はモンゴロイドかその混血――混血の可能性は零に近い――でしょうが、インド人の主流を占めるアーリア人は、どちらか・と言うと分析好きなヨーロッパ人(白人)遊牧民の血筋を引いているし、その上に、長い雨期には僧房に籠って坐禅を組むなどと、瞑想する長い時間に恵まれているし、考え事には向いている訳です。観察などでも非常に鋭いものを持った民族です。素養からして、四句分別を編出したのは、決して故無しとはしません。

 因明の九句因が四句分別で出来ていた様に、又・四句分別を用いるにも因明の手法・形の議論の中に用いる事も出来る様に、四句分別と因明とが、仏法の中では、相補関係で刺戟し合って発展して来た……。

 そう思います。その成果の一つが新因明への発展だった・と思います。因明が相当な範囲で用いられていたのは昔からの事で、アビダルマ(有部)では古因明を盛んに使っていましたし、連れて、竜樹が有論対治を行うに際しても、有部側の言分として登場して来る訳です。意識して遣ったとは思えませんが、竜樹が帰謬法に叶った仕方で意見を述べるのも、論理性を重んずる相手だからでしょう。

 因明が確実な論理として自覚され、自信を持って広く使われる様に成ったのは、やはり陳那の新因明に成ってからでしょう。新興勢力の唯識派が広めたからです。

 それですが、唯・広めたから広まる・という一方的なものではないでしょう。片方にそれを受容れる側の素質が無いと広まらない筈です。冷房器具をエスキモー社会へ持込んでも無視されてしまう様なものです。新因明が盛んに成っても、インドではそれでも四句分別の勢いは衰えません。

 中観派の側に立って観察する所為(せい)かも知れませんが、仏教徒の間では、新因明の時代に成ってからでも四句分別の方が基本として扱われ、因明の方は何か補助的な立場として扱われている・様に思います。四句分別の方は、悟りに焦点を当て、何をどう掴むか・という実践修行と密着した形なのに対して、因明の方は実践・修行からはちょっと距離を置いています。

 という事は、古因明であれ新因明であれ、因明が目指している所と四句分別が目指している所とでは、明らかに違う点が有る・という事ですね。

 そうです。因明の方は、物事の道理を明らかにする・という客観上の論理性を強調している訳です。分別が人生の真実なのかそれ共幻(まぼろし)なのか・分別は虚仮・虚妄なのか・そうではないのか・という問題には一切関わりません。関わるのは・偽分別か真分別かの一点だけ・です。用途が世俗の実用の方へ向いていて世法臭が強いのです。その代り認識には便利です。

 そこで因明は、アビダルマの様に仏教用語の概念分析に使われたり、法の分析的認識に用いられたり、外に向っては教派・部派の違った人々の間の議論に用いられたり、以上の様に研究・討論用という事で、仏教徒の中から育って来た新因明は特にそうでしょう。これが又<著有の法相>を生む一因にも成って参ります。作用識を何でも体にしてしまわないと気が済まないのは、明らかに因明が影響している・と思います。認識の立場だからです。唯識が客観化して説かれたのも一つはこの為です。

 所で、竜樹は『中論』では、因明に依る思想の組立は全くして居りませんね。自分の思想は四句分別で組立ています。竜樹の言わんとする所が、因明では全く会得されないのだ・とすると、これは単に・論法の違い・というだけではなく、竜樹が扱おうとした問題自体の違いに由りますね。

 竜樹の場合は、悟りの為にも四句分別・議論の為にも四句分別です。四句分別は主として<悟達用・解脱用>ですが、解脱用と言っても論法である以上は、討論にも当然使われる訳で、八不の様に横型応用型として用いられ、これを強烈に遣ったのが『中論』という事でしょう。

 『法華経』の場合、四句分別の適用・という点から見るとどう成りましょうか。

 多い・とは申せませんが、それはもう当然出て来ております。『法華経』は「法華は衆経を総括す」(『玄義』)という特殊な経文で、一切経の中で此の経だけは特殊な位置を占めているのです。この為に無暗に枝葉の理屈を述べてはいないのです。そういう事は法華以前の諸経で既に尽くされていたのです。四句が少い所以(ゆえん)です。

 我々に取って、『法華経』で目新しい理論……理論らしい理論が述べられているのは、精々「方便品」だけでしょう。後は爾前の理論の蒸返しです。実義に依る見直しです。実義への適用です。活きの法門として会入して来ているのです。

 という事は、結局、理論は法華以前で一通り区切りが付いた・という事でしょう。

 そうです。経文に「説示」と在りますが、『法華経』には主として「示」す方が出ている訳で、「説」く方は 『華厳・阿含・方等・般若』であらまし尽きた・という事です。理論を説く方は、法説の「方便品」で総纏めにして締括ってしまっています。後は譬喩説・因縁説・衆生に授記を与える説とか、更に、本地論・付嘱論・功徳論・如何に行ずべきかの実践論・菩薩の位の論とかが続きます。

 それに本門は、釈尊自身の久遠以来の体験としての悟体を開示する「寿量品」、更にその現わに指標した下種の法体を付嘱する・という儀式が中心ですから、結局、枝葉の理論はそっち除けです。結経(『普賢経』)の理論も爾前の再説を出ておりません。それでも四句の実例はそれ程多くはなくても在ります。例えば「安楽行品」 の

 「一切の諸法は 空にして所有無し

 常住有ること無く 又起滅無し

…………………… ………………

 一切の法を観ずるに 皆所有無し

 猶虚空の如し 堅固なること有ること無し

 不生なり不出なり 不動なり不退なり

 常住にして一相なり 是れを近処 と名づく

…………………… ………………」

という風です。第三レンマです。

 また「寿量品」で私達は「非実非虚 非如非異」と読んでいます。「実に非ず虚に非ず 如に非ず異に非ず」……これも第三レンマです。

 兎に角、四句分別が余り『法華経』には出て来ない理由は先に申した通り――理論を説いた経ではない――ですが、それでも詳しく読んで行きますと、ちょこちょこ此の論法が出て参ります。内容は全て自覚への反省論法として、縦型を軸にした横型(応用型)として使われております。応用型であるのに横型ながら縦型の自覚内容を述べております。


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