(3)新因明は定言三段論法の演繹法

 竜樹から暫く後迄は古因明でした。仏教徒の間では上座諸部が研究し、それを竜樹後の唯識派が引継ぎ、弥勒・無著・天親が研究して、遂に陳那に到って三支作法の演繹法という新因明に成った・という話でした。

 中観派は専ら四句分別に拠る空観の反省一本槍ですから、古因明にも重きは置く事無く、因明の発展には無関係でした。唯識は法門としても上座部の延長上に在りますから、上座部で為(し)ていた因明研究も引継いだ訳です。

 上座部のアビダルマ……有部が<我空法有>の有論に成ってしまったのには、一つには因明研究に熱を上げた為でもある・と思います。比量に由る認識癖が仏法理解の中へ這入込んで、仏法を客観認識する方向へ加速してしまった様です。こうして出来たのが有論で、到頭・竜樹に、我空法空・詰り<人法二空>だ・と叱られる羽目に成る訳です。

 新因明の開祖・陳那の著書は今では『因明正理門論』しか残っておらず、これもインド語原本は無く、漢訳本しか残っていないそうです。古因明は幅は広くても証明力が曖昧だったので、遂に陳那が<三支作法>の新因明を作って、古因明を追放してしまいました。これで<合・結>が無くなって<宗・因・喩>の三支と成りました。専ら<比量>だけを論ずる事は言迄もありません。『概論』から引用してみますと

 宗  声は無常なり

 因  所作性の故に

 喩  所作性のものは無常なり、たとえば瓶のごとし

宗は主張される命題・因は推理の根拠・で古因明と変りませんが、<喩>が変ります。古因明の喩は<因の性質の実例>であって<単称>でしたので<大前提の実例>でした。新因明の喩は<全称>であって<大前提>そのもの・だそうです。喩え(実例)は後半だけです。

 宗・因・喩は、宗が結論・因は小前提・喩は大前提・だそうですから、アリストテレス論理学の<大前提−小前提−結論>という定言三段論法を逆様(さかさま)に使った形に成っています。形式の順序が入れ代っただけなので、定言三段論法のバーバラ式に等しい・のだそうです。

 今の引用文の<喩>の部分は「所作性のものは無常なり、たとえば瓶のごとし」ですが、これは「全ての所作性のものは全て無常である。その実例を挙げてみれば瓶の様なものがこれに該当する」(瓶は人が作った所作性のもので必ず壊れるから無常だ)……と言っているのですから、瓶は<実例>で、<喩>はこの実例が成立つ<全称判断>であり大前提だ・という事に成ります。今の引用文を見れば演繹法である事が一目瞭然です。

 「声」と「瓶」とは現量で、「所作性」と「無常」とは比量です。この比量を正しく操作して「声は無常なり」という正しい知識(判断)を得る為に因明を展開して行く事に成ります。論理学ですから当然・思量は出て来ず、その他の量も出て来ない訳です。

 この量論に就いても仏教徒と外道との間に色々と論が分れるそうですが……。

 唯識派では対境を量知するに就いて、現量・比量の二量説、或いは非量(似量とも言う。似現量と似比量との事)を加えた三量説です。然し必要なのは陳郡が整理した様に現量と比量とだけで、実際には後は不用だ・と思います。特に新因明ではそうです。

 因明そのものは仏法ではなく論理学ですから、外道側でも研究され、ずーっと時代が下って九世紀以降に、ジャイナ教徒(六師中の苦得外道・尼腱の道で宿命解脱を説いた派・の後身)が新因明の『因明入正理論』(陳那の弟子・天主の著)を研究したそうです。

 三支作法に拠る新因明化と共に、この量論にも陳邪の大きな特徴が有る訳ですね。

 陳那以前は外道各派や仏教徒の間で、古因明が盛んに研究もされ実用されていたのですが、認識根拠や知識形態に就いて、現量・比量・非量・聖言量(聖者の教えによる知識)・譬喩量(類推の量)・義準量・随生量・伝承量・果ては<身振り>などに至る迄、兎に角矢鱈に多かったのです。

 そこで陳那は<対象の有する二相>という根拠に立って、現量と比量との二量に整理した訳です。この二量化と三支作法化の二点に由る演繹法化が陳那の功績であり特徴な訳です。詳しい事は『哲学事典』に出ています。新因明を作るに就いては弟子の天主が大いに協力している・そうです。

 『事典』には「陳那に次いで法称が出て、彼は更にいくつかの点で陳那の合理主義的傾向を徹底した。特に陳那の認識論の組織づけ、三支作法を三段論法と同順にする事の意識、否定判断の原理、推論表現形式の分類等における功績は重要視されなければ成らない」……と指摘しています。

 更に「法称ののち仏教論理学はインドであとを断ったが、後世の正理学派やジャイナの論理学では明らかに新因明の学説を直接的間接的に受用している」と在ります。こうした因明に拠って外道と仏教徒とが対話や討論が出来る訳ですね。

 まず現量は誰にでも共通に認められます。すると、比量は・正しければ・誰にでも認められます。結果は横型推理の知識で俗諦です。俗諦は宗教には関わるものではありませんから、外道でも仏教でも共通します。この線から入れば異教徒間の対話は順当に成立します。連れて客観的に聖諦を或る程度は教えられます。

 新因明は西洋の形式論理学と共に演繹法ですから、長所として、思考の適正を保証し・思考範囲の論理的拡大をする事は出来る訳ですが、同時に「演繹法に依っては、世上の新しい事は何一つとして発見も創造も開拓もされない」という重大な欠点も在る訳です。

 してみますと、これは認識上だけのオルガノンでして、反省に拠る解脱には補助以上の役には立ちません。更に演繹は、解脱への道筋を正しく伝えたり、解脱の内容の説明を正しくする手段でしかありません。

 ですから、経文などが、きちんと演繹の手続を正して述べて在る所を捉えて、又は・演繹は一から多へ向う・という性質を捉えて、「仏法は演繹哲学だ」と主張するのは明らかに脱線で、誠に困った事です。これは化他面で、相手が抱えている問題への観察に関する把握に就いて「仏法は(類推等でなく)演繹で遣るのだ」と言ったのを、この真意を捉え損ねて横ざまに脱線してしまったのです。

 そう言われると「因明は邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり、之を執著すること莫かれ」(伝教・『徴佗学決』)という真意が明らかに成ります。然し、西洋の三段論法とは”中味”(関心の在り所)がやはり違いますね。

 何処が違うか・と言うと、西洋の三段論法は、適用に就いては、何処迄も世法から世法へ行くのです。論じ始めも論じ終りも世法です。所がインドの仏教徒では、陳那以降の新因明もそうだし古因明もそうですが、論は、世法から始まって仏法(勝義)へ行く<過程>なのです。過程であって目標ではない。勝義へ入って行かないと何にも成らない。ここが決定的な違いで、西洋のは認識の為のオルガノン、仏法のはそうではあってもやはり解脱の為のオルガノンです。

 新因明は判断論(命題論)を欠いた為に論理の根本が定まらず、合理的思考が充分に成長出来ない原因と成った・という事でした。形式化も素朴な儘で成長しなかった・と思います。<九句因>は妥当な推理を判別する試み・なのだそうですが<同品有異品有・同品有異品非有・同品有異品有非有・同品非有異品有・同品有異品非有・同品非有異品有非有・同品有非有異品有・同品有非有異品非有・同品有非有異品有非有>には四句分別を感じます。

 これは四句分別ですね。因明と四句分別とが結附いていた・とは面白い事です。形式化の面に就いては、必ずしも・論理の形式化が遅れた・という事だけではなくて、形式化に重点が置かれてはいなかったのです。例の<分けない流儀>が働いているのです。

 仏法者の間では、常に自覚に重点が置かれていて、事実と論理とを分けない<直接把握>という特徴を持っており、これが因明にも影響していた・という事です。これが結果的に因明の形式化の遅れに繋った・という事でしょう。経験という大枠の中で、正しい論を世法から仏法へ・もっと深く世法から仏法へ・と向けて行く事が、仏教徒に於ける論理・論法の一番の特徴だ・と思います。


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