(2)古因明は”ポロ” い――仮言三段論法の類推推理

 では、古因明を簡単に振返ってみて下さい。類推法であって役立たずだ・という話でしたが……。兎に角、古因明は<宗・因・喩・合・結>という五個のメンバーで組まれた<五分作法>という推理式を採用したものであり、これは因明独特のもの・だそうです。

 最も古い文献はカニシカ王の待医・チャラカ(100〜150年頃)というお医者が作った内科医学書『チャラカ本集』というのが残っていて、その中に・医者に必要な教養として五分作法が論じられている・のだそうです。英語ではファイヴ・メンバード・シロジズム・という事に成るそうですから、この<作法>は<シロジズム>(論法)の意です。

 これに対して新因明では、五分作法を論理的に整理した結果、<合・結>を追放して<宗・因・喩>の三支作法という三つのメンバー(支・肢)で組んだ推理式を採用する事に成りました。古も新もどちらも<三段論法>である事は変りませんが、古因明は定言三段論法の様に見えていてその実<仮言三段論法>であり、新因明は仮言三段論法の様に見えていてその実<定言三段論法>なのだ・そうです。「ならば」という条件下の論法が仮言論法に成ります。

 推理式としては古因明は類推推理式・新因明は演繹推理式で、然も古因明は仮言三段論法の複合になっている・との事ですから、古因明は<複合仮言三段論法類推推理式>・新因明は<定言三段論法演繹推理式>という事に成ります。大体以上の様に『概論』の中に書いて在りました。私は素人で論理学の事は詳しくは判りませんから、以下に就いても『概論』を借用して述べて、それに就いて自分の意見を申し上げて参ります。

 古にせよ新にせよ因明は論理学ですから、古新因明を仏法論理学と称した史実は在っても仏法そのものではありません。世法ですから論理学での真理は俗諦に停まります。という事は、この学は横に推理して現量から比量を得る操作・という事に成り、思量(反省量)は登場しない事に成ります。論法反省修行・詰り・反省自覚には役立ちません。

 詰り登場するのは<現量>と<比量>とです。このうち現量は直接把握量知ですから、これは論理以前・因明以前です。現量は<知覚>であって<推理で得た知識(判断)>ではありませんから論理を展開する為の基礎です。すると因明の内容は<比量>だけ・という事に成ります。比量を正しく操作するのが因明である・という事に成ります。

 その現量の<量>というのは直接には<はかる>という事でしょう。推し量(計)るから知り得る。そこで量は知識源又は認識源・という事に成ります。現量は感覚知覚・直接(体験)知覚という事で、字義は<眼で働くもの>という事を指し、眼根感覚の異名であり、<インド哲学一般の基礎的概念の一つ>だ・そうです。論理学(因明)だけには限らない訳です。

 唯識派では「現量とは対境を無分別に量知する事」と言っており、これが<直接無分別現量>という事で、白い花を知覚してまだ白い花と意識しない前を現量と称している・そうです。現代風に言えば<前意識>に相当する・と思います。陳那も法称もこの立場を厳守し、知覚作用と構想作用とを峻別しています。心理学的仏法の唯識派らしい態度が見えます。

 そこで、無分別現量だけが実在に即した認識であって、比量は仮りの幻だ……という主張が出て来たのですね。

 そうです。そして「量知する心は迷乱の無い清浄心でなければ成らない」と言って居りますから、やはり解脱への慧心・という所へ関心が集中しています。唯識は仏法ですからこれは当然でしょう。これで判る様に、唯識では<世俗の現量>(凡人の現量)と<勝義の現量>(非凡人の現量)との二種に大別しているのです。今のは後者の方です。

 凡夫の現量は更に三つに分類されているのですが、こういう風に<現量の分類>をしたのは唯識流しか在りません。そして、新因明に出て来る現量は、後者の方ではなくて前者の<凡人の現量>の方です。これは古因明でも同じ事です。詰り、直接無分別現量は唯識仏法での主張で・因明の現量は普通の現量・という事です。然も知覚に留まって知識ではない所を因明での現量としている訳です。この点は注目して置くべきでしょう。

 それと同じ様な事は<比量>に就いても見られます。我々が今迄使って来た様に、単に・比量・と言うと<推理知識>の意に成りますが、論理学での比量はこうした判断結果の知識の事ではなくて、知識という判断結果に到る――途中の――<推理>の事を指します。詰り、因明での比量は推理・という事です。

 因明はどちらも三段論法だそうですから、それを少しばかり解説して置いて下さい。これが済めば因明へ入る準備は全部整います。

 前にも出た話ですが、人類・人種・個人・と挙げると、個人は人種に包まれ、人種は個人を包んで人類に包まれますから、個人は人類に包まれる事が判ります。これとは少し違いますが包摂関係としては同じ事で、人類(中概念)に就いての何事か(大概念)に就いて当嵌る事は、中概念を介して個人(小概念)にも当嵌る事に成ります。詰り中概念を介して<小概念−大概念>の正しい連結が成立つ・というのが三段論法の遣方です。普断・誰でもしている事です。

 古典論理学は現代論理学の<一階の述語論理>に含まれてしまいますが、Sを主語・Pを述語として<全てのSPである・でない=全称肯定・否定。或るSPである・でない=特称肯定・否定>の基本四判断を挙げます。このSPとは<存在仮定>です。

 古典はこの基本四判断を基準にして、二個の判断同士の間の関係(直接推理)三個以上の判断の間の相互関係(間接推理)を調べて行く事を目指します。四個以上は三個の複合ですから三段論法が一番大事に成ります。

 二つの前提(判断)から一つの結論(判断)を導くのが三段論法です。結論としての判断の主語(小概念)を主語又は述語として含んでいる前提が小前提で、結論の述語(大概念)を主語又は述語として含んでいる前提が大前提です。大前提と小前提とに含まれている第三の概念が中概念(媒概念)です。これは何も難しい事ではありませんで、日常誰でも遣っている事です。実例を挙げますと

 全ての人は死ぬ(大概念)・〔ものである〕(叙述判断)………………………大前提

 ソクラテス(小概念)は人(中概念)である(叙述判断)………………………小前提

 故にソクラテス(主語・小概念)は死ぬ(大概念・述語)………………………結 論

こういう風に成ります。これが定言三段論法の<バーバラ式>の例です。定言三段論法では大別して四格・小別して二十九格式に成るそうですが、大別の第一格バーバラ式が全体の中心・基本に成る・という事だそうです。

 古因明は類推なので俗人に対しては通りが良いが”インチキ”です。新因明は正確な代りに俗人には通りが悪くなります。古因明は<宗−因−喩−合−結>の五分作法です。<宗>は主張で<結>は結論ですが、この<結>と<宗>とは同じものなので繰返しですから、古因明の内容は四分作法・という事に成ります。最先に結論をまず述べるインド流です。

 選挙演説でも・まず主張して次に尤もらしい理屈の中味を述べ、最後に結論で再び主張を言って終ります。まず、最初に「私が立候補した〇〇です、どうか宜しく」と頭を下げます。これが<宗>です。次に滔々と尤もらしい理屈を並べて、結論を「こういう訳ですので、どうかこの〇〇に宜しく投票を)お願いします」と結びます。これが<結>で、<宗>と<結>とは全く同じもので繰返しです。五分作法はこの手を遣っている訳です。

 『枕論』 に依りますと

 宗………主張される命題・詰り・結論。

 因………推理の根拠。普通は中概念になる筈だが、この根拠は判断としての小前提。

 喩………因の性質の実例。普通は大前提に相当する筈だが、ここでは<大前提の実例>、

       大概念と中概念との関係を実例で示したもの。

 合………応用。喩の実例を宗の主語に応用する。大前提に現れる述語(大概念)を

       小前提(及び結論)の主語(小概念)に適用する。

 結………結論。宗と全く同じもの・詰り主張。

そして、<類推>の行われるのは<合>だけ(喩の方ではない)であり、五分作法の全体は仮言三段論法の複合である。従来、定言三段論法と同じものと考えられて来たがそれは誤りである。類推とは、一つの個物に適合する事は他の個物にも適合する・という推理である。(以上取意略出)……と述べられております。次の実例(『概論』から引用)を見て照らし合せれば言う所の大凡(おおよそ)の事は判る・と思います。

 宗   神我は常住なり。

 因   非所作性なるが故に。

 喩   たとえば虚空のごとし。

 合   非所作性なる虚空のごとく、神我もまたしかり。

 結   故に(神我は)常住なり。

 ここから私の意見を申し上げます。これを我々流に平たく言うと

 虚空の様に非所作性のものは皆常住する

 神我も虚空の様に非所作性のものだから常住する

と成ります。これは言回し(形)からして定言三段論法の様に見えます。そして言分は如何にも尤もらしく見えます。所が実際には<仮言三段論法の複合に拠る類推推理>だ・との事です。末木先生はそう言っています。そこでこの実例を判り易くしてみると次の様に成ります。次表を見ると「随分手前勝手な主張をしているなあ」という感じでしょう。

 

複合仮言三段論法類推推理式(内容は実際には間違っている)五分(宗・因・喩・合・結)作法

              (仮言三段論法)(仮言三段論法)との複合

(仮言三段論法)

 若しも<非所作性>なる事態が在るとすれば、……………………………………………仮言

 全ての非所作性には<常住性>を含む。…………………………………………………仮言

 (所が本当は「若しも世の中に<常住>という事態が在るとすれば、……………………仮言

 常住事態は(非所作性)でなければ成らない」……………………………………………前提

 でないと可怪しい)虚空は非所作性のものの一つである。故に虚空は常住する。………演繹

(仮言三段論法)

 神我は虚空の如き存在である。…………………………………………………………類比・推理

 (所が本当は「若しも神我というものが在るとすれば、……………………………………仮言

 神我は虚空の如き存在でなければ成らない」…………………………………………類比・前提

 でないと可怪しい)故に神我は非所作性の存在である。…………………………………演繹

 故に神我常住する。…………………………………………………………………………演繹

 

詰り五分作法の立前は”嘘”で、下(類比か・演繹か)の方が本音の真相でなければ成らない訳です。以上で明らかである様に、この五分作法には、実際は<仮言>――ならば・という条件――が二つも入っており、演繹であるべきなのに単純な類推で片付けられてしまっています。<宗因喩合結>という作法で言回すと、如何にも鹿爪らしく尤もらしく権威が有るかの様です。

 所が、長屋の八っあん熊さんに教える横丁の御隠居式に「虚空の様に非所作性のものはみんな常住しているものだ。神我も虚空みたいなものだから常住してるんだ」と平たく言えば、鹿爪らしさも権威もケシ飛んでしまいます。でも、尤もらしさ・だけは残ります。

 所がそれ(尤もらしさ)は前表で明らかに成った様に実は”真赤”な”嘘”だったのです。尤もらしさも糞も無かったのです。だから「随分勝手な言いぐさだなぁ」という感じだったのです。これでは<論者の意見の押付け押売り>です。これが古因明の<ポロさ>です。古因明は全部<因・喩・合>の部分が”ポロ”いのです。結局・古因明は”ポロ”いのです。新因明へ発展せざるを得なかったのはこの”ポロ”さの故です。


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