(6)三諦の基本的な意味

 三諦の基本的な意味は、求道の自行面では、縁起の仮から空へ、そして空の儘仮を備えて仮空相等の中へと行く。化他面では、空仮相等の中から仮へ帰って来る・という事でしたが……。

 化他面は果位の教主の双照の立場です。本当の三諦はそこに在る訳です。この場合、空というのはどちらかと言うと悟りの色合いが強い。仮というと衆生化導の化他の色合いが強い訳でしょう。

 その悟っている自分と・悟った所を人にも悟らせょうとする外に対する働き掛けと・これは何も異なった事でない・と言う。相等しい、空仮相当である。これで中道法相です。空にも仮にも片寄らない所です。

 だからこの違っていない所を拡げて行くと、仮のなかに既に空仮中あり・空のなかに空仮中あり・中のなかに空仮中あり・いずれも実体化すべからず……と・こうなります。これで相即円融です。

 但し、空仮相等というこの<相等>は、「相等に非ず不相等に非ずして如是相等なり」という内容の<相等>でなければなりません。記号論理学での<相等>とは若冠違った内容になります。

 各々に三つを含んでいる・という所をもう少し伺いたいと思います。「一諦にして三諦なり」(『止観』)と言う相互包攝論だ・と思いますが……。

 解(げ) の認識論としてはそうなります。然し本来は反省論でして、行(ぎょう)の実践自覚論として扱うべき問題です。それはそうややこしくはありません。お釈迦様でも何仏でも、仏様はなぜ化他に出るか・という動機を探れば、慈悲(これを顕現したのが応身)が有り、且つ自分が悟っているからです。

 この世に出現しているその<仮に出ている>動機を考えれば、そのなかにちゃんと空が有る。だから法報応の三身で応身というのは・法を説く外用の化他の面だ・と言います。報身は悟りの智慧の身であり化他の為の智慧の身でもあります。応身は慈悲で・報身は智慧です。応は仮・報は空です。

 智慧は道理を内容としますから理・智共に空なる法です。こうして慈悲と仏智の基体となる所は法でして、法を身に帯したこの法身は中道を行じますから中です。法は中なりです。この法は本有無作の自然法(じねんぼう)です。自然(じねん)法身が中道です。

 この智慧という事は、概念操作をやる智慧ではなくて、実際の仏様の体験から生じた所の・概念操作を含みながら然もそれを超えた反省智・体験智・直観智です。これらあらゆる作用智を一括した無分別智・無上智慧です。これを<般若>と申します。

 カントに言わせると、直観は<知>ではない・と言いますけれども、然し、反省も知を生みます。智慧による反省や概念操作の働きをぎりぎり煮詰めて行って、ほぼ一瞬間でその操作を完了したら、これは瞬間の知で、直観知になってしまうでしょう。直観知を完全に拒否してはなりませんね。

 さて、仮のなかに空の悟りが有るならば、表に出ている化他の時の仮の面と、その動機となり原動力となっている空なる智慧と、どちらが表面に出て居ようとも、結局は相等しい。この仮空相即の所に中が有ります。仮には振回されない・空にはむなしくされない・不動不寂・これが中です。

 今度は、智慧という・悟りという・己心の空なる内面性を見ても、自分が悟っただけでそれで好いか・となると、これは考えざるを得ません。空を悟って空に留まっては空に寂せられてしまい、著空頂堕の空病で何もならない。二乗・菩薩は空病なり・で、これでは仏様ではありません。

 悟った以上は衆生を化導しなければならない・という<無縁の慈悲>による衝動的な意志の発動が有るでしょう。無縁とは特定縁に偏らない・縁(相手)を選ばない・という事です。するとそれは既に・この空のなかに仮諦を孕んでいます。化導の智慧も孕んでいます。孕んでいる以上はやはり空仮相等で以って、これで中道です。

 中道とは・道に適(かな)う・法に適う・とされていますから、中道是れ法身で中諦という事になります。会得すればこれも反省知です。直観知です。智法身です。

 その様に基体(如法に生きている・という事)となる所の中道は如是体です。体にも非ず不体にも非ざる如是体です。法身です。法身が有って道に適って生きて居る以上、必ずそこには良し悪しに拘らず活動性が有りバイタリティ(活力)が有ります。

 バイタリティが有る以上、必ず自らに対しては悟りを深め(空)、衆生に対しては與楽抜苦の働き掛け〈仮)をします。バイタリティの発動性というものはこの二つしか無いです。そうすると中のなかに空仮有り・となります。

 こうなると、仮のなかに三諦有り・空のなかに三諦有り・中のなかに三諦有り、互いに含み含まれ・攝し攝せられて円融している。三諦相即の一心三観(因行)円融三諦(果徳)というのはこれではないですか。一諦も三諦・三諦も一諦、反省上の縦型縁起関係で存立して何処にも固定化・実体化は有りません。法執も有りません。無礙です。

 そこが一番基本的な所ですね。空仮中の三諦というものが在り、それを体(からだ)で知るには、次第の三観が在り・不次第の三観が在って、相即の三観から仕舞いには円頓の三観になります。これを天台は順序を立てて言っております。

 それは何も別の事ではないのでして、行の訓練の仕方の順序だけの事です。『摩詞止観』というのは、こうきちっと出来ています。次第を踏まえを不次第を踏まえて円頓へ行くのか・と言うと、そうではありません。訓練の順序だけの事なのです。

 三観について、その目指す所の<仮>は意志による判断によって形を取り、<空>は反省判断で智に生さ、更に再反省した<中>は法に適った生き方である・という風にも言われますが……。

 そういう面も有ります。色々な面が在るのです。仮というのは、但の世俗や俗諦を否定してそこから一度脱けて、又勝義の世俗へ帰って来る所です。ここを建立仮と言います。普通、建立仮は化他面ばかり強調されますが、実際には自行化他に亘るものです。

 空の部分は、何処迄も反省して真諦を衰えさせない・という反省の判断です。生活が続き当面する事態が変って続く以上、連れて反省も又続く訳です。空観がしっかりしていないと、あっちへ拘(こだ)わり・こっちへ囚われ・あれを愛し・これに執著し・で自在には振舞えないでしょう。

 何せ世の中は相手が有る事で、男が玄関を出たら七人の敵が居る・と言う位ですから、自在に振舞う・という事は大変な事です。自在は放縦とは違いますから、倫理性と正理と正しい智慧と行動力とを要します。活力も必要です。

 中というのは、反省して世俗を出て真諦へ達したけれでも、その上で更に再反省して、真諦のなかに世俗を引張り込んで消化してしまった訳です。こういう事で、純世俗や俗諦と真諦と、勝劣の位置付けをはっさり着けて円融した所が中諦です。

 この為には反省操作が要る訳です。反省判断を必要とします。だからこういう中道を外れてしまうと、今度は断常の二見が始まる。断常の際を超えるのを無辺中道・と言いまして、断見常見を超えた不断不常の息二辺止の所が中道です。断見も形而上判断・常見も形而上判断・悪しきドグマです。

 現代は学問が発達し教育が行渡って、一億総インテリという状況下に在るのですが、それでもこういう話を仲々理解出来ないというのは、どういう点に障害が在るのでしょうか。見惑の所以(せい)だ・と言ってしまえばそれ迄ですが……。

 一般には先入観の虜になっているからでしょう。一つは・学校で教えられた諸学の先入観念です。特に大学で教えられるのが一番質(たち)が悪いです。諸学は皆・実体仮定の上に築かれているので・実体思想に凝り固まってしまう。

 これらは世俗では大切なのだけども、仏法理解に対しては実に質(たち)が悪い。というのは、俗諦の真で凝り固まって実体化したものだけを教わるから、入力されたコンピューターと同じで、実体思考しか出て来なくなってしまう。

 それは確かに実感致しますし、これも大きな一面だと思います。

 もう一つは、そういう風に出来上った頭に安住してしまって、それ以上に突込んで概念操作や反省操作をやってみよう・という意欲が足りないからです。不足感や不安・不満感はレジャーで紛らかしてしまう。こういうのを天台は「頂堕」とか「法愛の惑」と言って、破るべきものとして戒めています。

 結局、学問で仏法の方を眺めてしまうのです。仏法で学問を眺めないで学問で仏法を眺めてしまう。

それは摧尊入卑(尊法を摧し砕いて卑法の中へ入れてしまう事)の危険性が非常に大きい訳です。勿論・概念操作で比較するだけではいけません。それでは唯この俗世界だけで客観をやっている事にすぎませんから……。

 客観や分析・果ては推論操作は、結局は科学理解の方法で、形而上の推論操作と雖も哲学理解の領域にすぎない。宗教・特に仏法には手が届かない……。

 そうではなくて、修行し、自分の信心の体験の上に根を生やして概念操作や反省操作・比較等をやるべきです。それで信行学の<学>が大事になる訳です。学は智慧と相い呼応した相応法なのです。智慧の<修行>です。その儘<行>(ぎょう)なのです。

 ですから、序でに申しますと、仏法の<学>というのは今の学校式の<学ぶ>という事ではないのです。<習う>という事で、正確には実践で<修習>する事です。戒定慧の<三学>はそうです。仏法は<智慧の学び>です。仏法そのものが智法です。

 末法の今は智慧よりも信を強調します。本当は末法以前でもこの点は同じなのですが、「以信得入」と言って・仏法には唯<信>だけが能く入り得るのだ・と申します。「以信代慧」とも言って、信は智慧の代理役になっておりますが……。

 因果関係から申しますと、信は因・慧は果・という相依関係(縁起関係)になります。信も又智慧なのです。と申しますのは、智慧の働きが無いと正しく<信ずる>事が出来ません。犬猫や馬鹿は仏法を信ずる事が出来ません。智慧が無いからです。これで信は智慧だ・という事が判ります。


トップへ戻る ●目次へ ●←前ページへ ●次ページへ⇒
inserted by FC2 system