六師義は正理なのでしょうか

       「知らなかった」では済まされません

                                         石田 次男

 宗祖日蓮大聖人の仰せには

「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え」(十八円満抄)とございます。

ところが私達はこの30年間・教主大聖人の仰せにもかかわらず・釈尊諸仏の御本意に背いた

とんでもない邪理・迷理・妄理を修行してきたのではなかったでしょうか。誰にもせよ、もちろん

自覚し悪意でした事ではありますまいが、この邪迷妄理はそれだけに根深くて、強く強く我が身に

染み込んでしまっているのではないでしょうか。人に教え込まれたためであります。

 歴史を顧みれば、法然・弘法等の邪師開祖達も、邪智・慢心に満ちていたにもせよ「自分の法は

とんでもない邪義・悪義・インチキだが、今は時代や衆生の機根が悪いのだから

これで間に合わせておけ」と自覚し配慮して彼等の邪悪義を弘め始めたのではなかった筈であります。

こういう悪意から、称名念仏・真言等の各宗を立宗したのではない筈であります。

つまりこれらは自義を「正しい」(正理である)と盲信した元本無明の所作ではなかったのでしょうか。

 それでも一切経に照らしてみると教主釈尊の御正意に明確に違背している為に、日蓮大聖人によって

念仏無間・真言亡国と『正理に拠る』正法正義の側から一大破折を蒙りました。

「諸仏内証の肉眼を経と為す・教は破迷に義在り」(十八円満抄)…この『経の正理』を重んずるが故で

あります。今はこの筋道を我が身に当ててよくよく洞察してみるべきであります。

故意・悪意は無くても、念仏・真言を教え込まれたままに信受すれば、念仏無間は免れず・真言亡国は

避けようがありません。妙法といえども邪迷妄理の邪解を教え込まれたままに納受信行すれば、

因謗堕悪・千劫堕獄であります。敬うようであっても国さえ滅びるのであります。

 私達は入信の時、御授戒の場に臨んで「今身より仏身に至る迄、爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて

正直に法華本門文底の正法正師の正義を信じ奉るや否や」と問われ、心から「信じ奉るべし」と答え奉って

入信した筈であります。この謹答は、授戒師の御僧侶の申し上げたのではなくて、御宝前において

御本仏宗祖日蓮大聖人へ申し上げた謹答でした。以来、誰にもせよ、爾前迹門の邪義ははっきり意識して

排除して正宗の信仰を持って来た筈であります。しかし爾前迹門の邪義は排したとはいえ、

もしもそれ以前の問題である『外道の邪法邪師の邪義』は捨てていなかった・としたらどうでしょうか。

 外道邪義は爾前以前の問題(内外相対の問題)で、授戒問答の言表の中に、言語・文字としては

含まれていなくても、言意・文意は当然、確実に授戒の問いの中に含まれているところのものであります。

それにもかかわらず長い間知らないままに、強力な指導者にだまされて、この『外道義』を信じ込んできた

としたらどうでしょうか。この信仰心は日蓮大聖人を始め三世一切諸仏に背いた『大謗法の信仰心』では

ないでしょうか。「知らなかった…」では済まされない事であります。どなたにもこのところを、

よくよく自省反省していただきたいのであります。なぜならばこれでは『からくり』において、

法然・弘法及びその宗徒と全く同様だからであります。

知らない為でも外道義を信じる事は『仏徒の手で廃仏毀釈をする』事になってしまいます。

 「此の日本国には外道なし小乗の者なし」(顕謗法抄)で、七百年前の鎌倉時代には我が国には

外道義(六師外道思想の法義)そのものが存在していませんでした。真言宗開祖の弘法でさえも

仏説の『縁起…無自性』を承認し自らの著作に『無自性(無本質)』を書きとめておりました。

つまり、この点だけに関しては弘法でさえも表向きの辺では外道義には騙されていなかったのであります。

今から百二十年余前の江戸時代幕末までは、我が国に『外道義』そのものが、

社会に存在していませんでした。

 外道義の問題は昔のインドの問題であって、一千八百年前の正法時代までに釈尊と竜樹の手によって

内外相対論として完全に破折され尽くして解決していたからであります。この事は「阿含部諸経」や「大般

若経」や「中論」等に依って明白であります。その後この外道義は姿を変えて法相宗の中に…法相義の

中に忍び込んで復活して漢土に出現したとはいえ、我が国に渡来するや伝教大師によって完膚無きまで

に破られ追放されたところのものであります。即ち権実論争(天台宗伝教大師vs法相宗徳一法師)がこれ

であり「法華秀句」で完結を見たところのものであります。

そしてこれらは末法以前・像法時代の事でありました。

 日蓮大聖人の御書(御法門)は、五重相対のうち、権実・本迹・種脱の三相対によって成立しております。

このうち、権実・本迹は天台大師からの引継ぎであり、宗祖独自の御法門は『種脱相対』のただ

これ一つだけであります。御書には、内外・大小とは、ただ名目だけが史実と共に示されて、その論証的

内実は示されてはおりません。というのは、問題ははるか昔の正法時代に解決され終えて、

もう末法の問題ではなくなっていたからであります。時期不相応な問題だったからであります。

 ところが歴史は思いがけない転回を示しました。なんと六師外道の法門が現代に復活したのであります。

というのは、明治時代になって、文明開化の波に乗って、西欧から六師法門そのままのギリシャ哲学…

両者の骨格は全く同じ…が日本へ移入されて、行き渡った学校教育を通じて日本人の頭の中へ

染み込んでしまったからであります。我々正宗信徒の頭の中へも、もちろん染み込んでしまったからであ

ります。私達はこの一大事態に果たして正しく気付いていたでしょうか。気付いて用心してきたでしょうか。

残念な事に、そして悲しい事に答えは「ノー」です。私が知る限り、ほんの一人二人の他は、

すべての人々が、ギリシャ哲学・つまり装いを変えた六師外道の思想のまま、信仰を続けております。

つまり、内正外邪・内勝外劣なのに、驚いた事に『内外一致』の信心をしているのです。

法門の解釈(理解)も、『内外一致の解釈』をして平然としているのです。

講義・講演みなしかりです。口先では「外道は正しく因果を説かないから駄目だ」と言いながら、

その因果さえも科学や哲学の因果律(客観法)であって、仏法の行業因果・修行因果(実存法)ではなくて

妙法の、観心・文底まで全部を六師義で解釈して平然としているのです。『種外一致』なのです。

『本迹一致』どころの騒ぎではありません。『外道法と文底下種法門とが一致する妙法』など、御書全編

いったいどこに一言半句でもあるものでしょうか。断じて無い事であります。

かつて昔、宗祖門下の五老僧達は、『本迹一致』の故に御開山日興上人より破門されました。

神詣でを許したり・天台沙門と名乗ったり・造仏義を懐いたり…等々も皆このためでした。

実に『本迹一致思想』以外に破門の理由は全く無かったのであります。

興尊御遺誡に曰く「本迹一致の修行を致す者は獅子身中の虫と心得可き事」と。

それなのに本迹一致よりもなお悪い『内外一致の修行を致す者』は『獅子身中の虫』ではないのでしょうか。

宗開御両祖から『破門』を給わって当然な、大非法・大謗法ではないでしょうか。

内外一致の指導者に率いられて、内外一致を教えられたままに信じて・多年にわたって内外一致の信行

を続けて…これでは積功(因行)累徳(行果)の功徳も成ぜず・大小の願行も成就せず・

冥顕の利益も生ずるに由無く・一生成仏も叶う事無く、

広宣流布どころかこうした人々の組織集団は単なる『仏罰製造株式会社』でしかないのではありませんか。

冷静に身の周りをご覧ください、現にあまりにも罰ばかりが多発してはおりませんか。人も我も…です。

しかもこれらは『華報』に過ぎないのです。

「これは果報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしかずらん」(佐渡御書)

を能く能く拝すべきでありましょう。

 おかしいと気付いて『正信覚醒』運動をする人もずいぶん拙宅へ訪ねて参られました。

正信に目覚めさせる運動……これ自体は正しいのですから結構な事であります。

ですが、話を聞いてその思想を問い訊ね返してみると驚く事に六師思想そのままなのです。

これでは法然と弘法とが互いに非難し合うようなもので正信覚醒運動が正信覚醒運動になりません。

自行にもならず、化他行にもならず、世の中の為にもなりません。

「正信覚醒や反学会も結構ですが、その前にまず自分の思想を直しなさい」と、なだめて反省を求めるの

に骨が折れます。これほど万人にとって六師思想の根は深いのです。内外一致は大流行しているのです。

誠に悲しい事です。恐るべき事です。

これでは貴い広宣流布が『バラモン・六師法の広宣流布』になってしまいます。

 我々は何時も宗教の正邪を問題にして人々にも話します。つまり化他行の際の中心課題は『正邪』です。

我々の宗旨は大聖人の仰せどおりに『謗法厳誡の宗』ですから、自行においても『正義・正邪』の判別が

中心的心得になっております。これからして当然の事ながら正邪は絶対に曖昧には出来ません。

それなのに『内外一致』では、仏法の三大秘法の『正邪』は完全に破棄されてしまいます。

内外一致・大小一致・権実一致・本迹一致・種脱一致……内外一致になれば

五重相対は『勝劣』ではなくなって、種脱一致まで一貫してしまう事にならざるを得ません。

これでは、宗教は何でも同じ、という誤った俗論になってしまいます。正邪は破棄されます。

してみると、この『内外一致』以上の大悪義が世の中に又とあるものでしょうか。

 ギリシャ哲学という全く新しい装いにせよ、六師義はどう言い繕っても六師義です。

では、いったいどういう人が内外一致の六師義を弘めるのでしょうか。

六師の事はあまりにも遠い昔の事なので我々はさっぱり何も知らないのではないでしょうか。

でも次の史実はご存知のはずです。提婆達多を始めとする六師外道達が釈尊を大いに迫害した…と。

釈尊と六師外道との事は、六師側が釈尊をよこしまに迫害して、為に仏は九横の大難をお受けになられ

ました。六師の『客観法門』を釈尊が『実存法門』をもって完膚無きまでに破折した為であります。

『開目抄』を拝見しますと「是の諸の悪人(六師義の人)……如来の深密の要義を滅除して・世間の荘厳

の文飾・無義の語・を安置す……これ魔の伴侶なり」(涅槃経) 「若し智慧無きは増上慢を起こし己れ仏

に均しと謂う」(止観)と、経・釈を挙げられ、六師の思想及び振舞いが如何に仏法を破壊するか、それが

如何なる者であるかを端的に教えておられます。仏法を形の上では奉じて、指導者の側にの身を置いて、

仏と均しいかの如くに見せ掛けて、この破法を行ずるのであります。

一例は、法然・弘法等の如く、今でもこの徒輩は幅を効かせて現存するのであります。

 釈尊は、六師は仏滅後の将来にまた出てくると予言を残しておられます。

「当来の世・仮りに袈裟を被て我が法の中に於いて出家学道し懶惰懈怠にして此等の方等契経(大乗経)

を誹謗すること有らん、当に知るべし此等は皆是れ今日(仏在世の意)の諸の異道の輩(六師達)なり」と。

ですから六師の徒輩は「(法然・大日・等は)六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし」(佐渡御書)と

宗祖御在世にも出て参りましたし、それから七百年後の昭和・平成の只今へ出てきても一向に不思議と

は申せません。この様に、仏出世以後の六師思想〔実体論〕というものは『仏法への敵対論』なのです。

 とにかく、形を変え姿を変えて六師思想の薫習種子(過去世の因業)の重い者が・またまた後の世

つまり今へ生まれ出ては『同じ思想』を『同じ行動』で弘めるのです。

『涅槃経』に「是の諸の悪人……如来の深密の要義(正法正理の正義)を滅除して(六師のような)

世間の荘厳の文飾(哲学や科学などの俗諦)無義の語(二者択一の論理とか横型叙述の推理推論

つまり比量など)を安置す……これ魔の伴侶なり」と示されているとおりです。

仏法は『実存』説なのに、六師の様の『客観』を説く者が現れる限りこうなるのです。

 こういう人は「若し智慧(法智・仏智)無きは増上慢を起し己れ仏に均と謂」っているからするのです。

智慧が無いというのは、法智・仏智が無いのでして、おおむね才知は周り、世知や機略に長けて、

人の上に立って弁説爽やかなのです。そうでなければ「世間の無義の語を安置」する事さえも

出来ないのです。

「世間の荘厳の文飾」を施す…(わかりやすい現代的解釈などというのがこれ)…事は出来ないのです。

法然・弘法等がそうだったではありませんか。今でも道理は同じです。

妙法の宗内においてさえも無明覆障の才人がこれをするのです。ですから獅子身中の虫なのです。

無明は我見を生み、我見は諸見を生み、諸見は執著を生み、我執の執着は我慢を生み、

我慢は我愛を生み、我愛は、我欲・貪慾を生みます。

無明から事起こって『見→著→慢→愛→貪』というわけです。「我見は諸見の本たり」(止観)です。

我見・我執は、必然的に我慢を招くのです。『御義口伝』に御教示の様に

在俗は矜高にして多く我慢を起こす……疵をし徳を揚げて自ら省ること能わざる(無反省)はこれ

無慙の人なり」です。「優婆塞(在俗)は男なり我慢を以って本とせり」です。

この『我慢』とは「執した我見に慢ずる事」です。『我見』とは『我有り・という見解』です。

我有り・とは、我はアートマン、つまり実体……(万物において・体の自己同一に留まる分・の事でして

これを西洋哲学では「サブタンス」と申します)……という事です。

自分及び万物に「アートマン(我・実体)有り」という見を『我見』というのです。この『我・我見・自性・自性見』

こそ六師思想の骨格でした。この実体論こそが『仏法への敵対論』の中身です。

『我』は『常一(常住・独一)主宰』ということでして、万物には…特に『自分には、自らを主宰している

自己同一な本体が常に具わっている』という事です。実体の事です。

このアートマン(我)の性質をスヴァブハーヴァ(自性)とインドでは言っておりました。

この『自性』を今の言葉では『本質(エッセンス)』と申します。実体の性質が本質です。

性質の自己同一の留まる分・のことです。

つまりギリシャ哲学が主張する『実体・本質』が、

六師の『我・自性』(アートマン・スヴァブハーヴァ)そのものなのです。

おまけに万物の『個在・独存』という考え…(原子論的思想)…が両者に共通しているのです。

この『個在・独存』は『プドガラ』と申しまして、釈尊に厳格に排除された『迷者の通俗なる思い』でした。

プドガラ・実体・本質…そして二者択一の論理、つまり『二辺見』、

客観から生じたこれらこそ『世間の荘厳の文飾・無義の語』の内容だったのです。

 我々は、そして万物万事・万象万法は、すべて宇宙の雄大なる階層構造の中へ組込まれ……

歴史的にも空間的にも『組み込まれ・他へ依存し且つ依存され』て存立しているだけでして、

決して『個在・独存』してはいないのです。プドガラ主義は『事態把握上の虚偽』なのです。

ブラジル人から言わせると、日本人は「地球にブラ下がって暮している」ではありませんか。

地球へ完全に『依存』しています。決して独存してはいません。個在もしていません。

人間は社会へ『依存』しないと生存不可能です。万物・万事・万象・万法、いずれも皆同様です。

ですから『仏法は実体否定(客観主義否定)の上に築いた体系』なのでした。

客観には抜苦力は無いのです。

『個在・独存』が成立しないとなれば、万事万障において、

その中に・その奥に『実体・本質』も又ありえません。

何故ならば、実体と本質とは『プドガラ』を前提としてしか考え出す事が出来ないからです。

世の中には『実体もどき』と『本質もどき』とは現実にあります。

これは、牛に対する馬、のような他存在との比較相対から発生する『類種存在』(普遍存在)と

その『特性』としてあります。

でも『実体・本質』の方は・俗諦としても・実際には無いのです。

詳しい解明は省略して結論から言ってみれば、実体有り本質有り・という・有我・有自性・の哲学思想は、

言葉は皆・個々・個別に言い立てられ用いられる…(必然にプドガラ主義になる)…事からきた

単なる『言葉に由る騙され』でしかなかったのです。

この『個在・有我・有自性』という客観の六師思想を破して、釈尊は実存の『相依相対の縁起・無我・無自性』

を説き、因縁仮和合の縁起仮有に基いて・空と中・という論法上の反省判断を説き、『仮有→空→中』の

三諦の悟りを人々に教えたのでした。

 ですから、内外相対とはどういう事か・釈尊と六師はどこがどう違うのか・と言えば、まず

 

六師は……宇宙・世界を『物の集り』(原子論的存在な地水火風空の五大の集り)と考えていた。

        彼等の説では五大(地大〜空大)は物質であって、各々、地は地のパラマーヌ(これ以上はもう

        分割不可能な・極微・色塵。真無である虚無に隣接している微小個在)の集り・水は水の

        パラマーヌの集り・と決定されていて、これが個在(プドガラ)主義となり、個在観から

        万象万法には『実体=我、本質=自性』が存在するものと考えていた。

        実体存在であるブラフマン(最高梵・梵天)が、自ら変化して宇宙になり、宇宙から生じた

        万物の一つとしての、人間・個人には必ず『我』が具わっていて、結局

        『梵我一如』(人間は梵と一体で小宇宙である・という思想)であると考えていた。

 

釈尊は……何よりも『(客観)宇宙論は人生苦の解決法(解脱法)ではない』と悟った。

        しかも、宇宙・世界は己心法界の『境法の素材』でしかなく『物の集り』ではないと悟り、

        『事件の集り』(因縁仮和合して縁生した性質法としての五大の集り)と考えていた。

        事件・出来事の集りで、しかも各個人一人一人にとっての、宇宙・世界であるから

        業因諸縁が寄り合って…(これが『縁起』という事です)…そこに一つの『佇まい』として

        組み上げられた形として仮存している…(これが空仮中の仮という事)…という、

        『己心の法』としての『縁起の法門』を説いたのです。

        (ですから仏典中にも出てくる事が有る「極微」「色塵」等の語は、バラモン・六師の説でして

         仏説ではありません。)

 

 以上の違いが『内勝外劣』(仏法勝六師法劣)という事です。それなのに現代を見渡しますとどうでしょう。

教育の普及で世界中が圧倒的に『客観主義者・存在論信奉者』ばかりです。

これは、六師外道法の人達ばかりという事です。これ六師法の全世界広宣流布です。

我が国でも明治20年に義務教育と学制を施行してから百余年、親子四代にわたって客観思想と存在論

思考とで全国民が洗脳されてまいりました。俗諦諸学はそうしたものですから、これはこれでよろしい事

ではありますが、このために解脱法であるべき真諦(非客観主義非存在論な正法)の会得が出来なくなり

我々日蓮正宗の全僧俗さえも六師義の頭になってしまいました。

外国や日本はもちろん、日蓮正宗内までも六師外道に制圧され広宣流布されていたのです。

外教外学(外道各教と存在論哲学と科学)・権実宗派・邪解とバラバラながら一括して六師外道法が公布し

当宗門内までも制圧し広宣流布している事実…これは『極めて深刻な重大事態』です。黙って放って

置けるものでしょうか! 正法の徒は直ちに内勝外劣の縁起論へ戻らなければなりません。

 この肝心な縁起論は決して客観論でも存在論でもありません。

『己心の法』という実存反省法で、『止観』に「果を招くを因となす、又は名づけて業となす」と言う通り

各人の『カルマ(業・身口意の三業)の法』でして、行業を因・助因を縁・とする因縁仮和合の縦型相依論

なのです。しかもこの和合因縁は決して一因一縁ではなくて、「無尽縁起」と説かれるように

時間空間両面で無窮無尽に連鎖し続ける『多縁存立』です。

でも、縁起法成立の『必要にして充分なる最小条件』は必ず『一因三縁』です。

前念が無い後念は有得ませんので善悪念に就いて天台が「(習いの)強きもの(念)は先に牽く、前念が

所依、現念(後念)が能依」と教えている様に『業依』(本有の念根)がまず一縁で、念が働く為の相手(待境)

が二番目の『業縁』で、それに自業と待境との二つに適合しふさわしい善法か悪法かの相応諸法(カルマの

実行方法)という『業縁』が加わって三縁です。

 専門的にはなりますが『縁』の話をもう少し続けます。

池田大作氏以下学会員は『縁』と言えば必ず『外縁……外部存在』と思い込んでしまっています。

『外部事物という境だけが縁である』と誤解していて、ここが科学癖頭脳の哀れさです。

ところが天台大師は「外境の話など当り前すぎて論じるまでもない」という態度でして、外境には一顧だにも

与えておりません。大師が十如是の如是縁の項で説く所は『外境』という”外縁”ではなくて『心』という

”内縁”の方なのです。『止観』正観章での「如是縁とは、縁は縁由に名く。業(カルマ)を助くるは皆これ

縁の義なり。無明・愛・等はよく業を潤す、すなわち心を縁となすなり」がこれです。

これが三縁中の『業縁』を説いている部分です。アビダルマ(小乗対法論師)はこの業縁を

『いんえん(因縁)』と名付けておりまして、ここだけを取り上げて掘り下げたのが『唯識法門』です。

この為にどうしても『唯識』は偏狭なのでした。誠にやむをえない事で方便教である所以(ゆえん)です。

とにかく『因も心・縁も心』……この点をしっかり確認願いたいものです。

 念が働く為の相手である業縁は、多くは人有情非情の・振舞・出来事・関係・でして、

外部存在、特に諸物質はその為の単なる使用素材でしかなく、麗々しく説くまでもない縁です。

そして実は相応善悪二法という『業縁』(カルマの実施縁)なかなか難しいのです。

簡略に実例で申し上げます。勤行するには、唱題三回・五座三座・唱題百万遍……と仕方はいくらでも

在ります。どれでも自分(智)と両面に相応しい『具体的方法』ですから善法悪法を問わず法則(真理)性を

持った相応諸法です。しかも「ただし仏になり候事は凡夫は志ざし(私註 業縁です)と申す文字を心得て仏

になり候なり」(白米一俵御書)が大切でして、勤行には自分だけの事(自利丈)を願うか広布(化他)を

願うかという「志の高低強弱」が必ず方法に先行しています。これも相応諸法ですから『業縁は智法で

二重構造』です。以上が妙法等の『法』……因縁生起法の骨格です。

この因縁生起法は「一切法は皆因縁の所成なり」(『玄義』)で、しかも各個人の振舞(カルマ)に由ってだけ

生起する実存出来事ですから・宇宙内存在・地球上存在・客観存在・などではない事が明らかでしょう。

「宇宙根源の法」などは大戯言(たわごと)なのです。

 因と縁との・相依・相待、これが・存する一切法万象の姿である・と説く……因縁仮和合というのが

仏説でありまして、もちろん日蓮大聖人におかれましても全くこのままな訳であります。

一切法は因縁仮和合でありますから、これを仮とも有とも称し、それ故に実体(我)も、本質(自性)も

この中には有得なく、万法は無実体・無本質『無我・無自性』である・という事であります。

 妙法も自分も確かに存立しているが、そのまま無実体(無我) 無本質(無自性)であります。

自分にせよ他人にせよ他の万象万物万法にもせよ、もしも個在しているものであり…(これは世俗の

日常常識における錯覚にすぎません)…我・自性(実体・本質)を所有しているものならば、これは

決定して『実有・厳有』であって『仮有』ではないし、断じて空にも中にもなり得ませんし、

三諦…(空仮中・一念三千・妙法蓮華経)…は成立いたしません。

又、厳有な、地獄・餓鬼・畜生・等では成仏不可能です。

以上の仮有と実有との違いは、実存把握(仏様)と、客観思想(六師)、との違いから生じたものでした。

一切は仮有であるからこそ空にも中にもなるのでありまして、動きの取れない、実有・厳有・では

空にも中にもなる事不可能であります。一切法は、一切は・因縁仮和合の『仮有』と因縁離散の『仮無』とで

運行しているのでありまして、これが万象の真相であります。

ここまで述べた決定的な違いから・つまり・出発点からの違いから、六師の法と仏の法とは、決定的に

別れているのです。この出発点の違いから内外相対の法門が出てくるのであります。

仏法で言う「有・無」は生活実存上での『仮有・仮無』という『判断』だからこそ矛盾律違背なはずの

『非有非無』(空)が妥当に成立している・という点をよくよく御考察願いたいものであります。

これは推理推論上(横型)の判断(比量)ではなくて『反省判断』(縦型・思量)なのであります。

 六師や池田大作氏やギリシャ哲学での「実体」は『不変体』の意です。固定体・不変体です。

御書や天台三大部や諸仏典の中にも「体」「実体」という用語が確かにございます。

ところがこの『体』は『必ず因縁仮和合体』(必ず・縁起体・縁生体・相依体・依他起体)でありまして、

アートマン(我)や、サブスタンス(実体)の意味の『固定不変体・実体』ではありません。

仏書での『実体』の方もそうです。この「実体」は「非体不非体而如是体」(『文句』)を「実体と名く」

という「実体」です。「非体不非体…」は「我体(実体)は無いので非体と言い・縁生体・因縁仮和合体・は有る

ので不非体という。これが・如是体・つまり・如是中道体・である」という事でした。

「中道如是体」を「実体」(如実なる体・如実体)と呼んでいたのでした。

要するに六師等の『有我・有自性(実体・本質)の梵我一如』などとは正反対なのです。

『正反対な名同義異』だったのでした。

六師とは内容反対な名同義異用語は地水火風空の「五大」その他全部と言っても良いほどです。

 こればかりではありません。

六師は……悟りとして梵我一如な天界を求め説いた。

        他の諸宗教も皆・悟りや救いとして天界を説いております。

仏 は……六師が悟りとする天界(天界・六道・梵我一如)を・輪廻する迷い・と排して仏界を説いた。

六師は……悟る方法として推理推論の法(二辺見)を説き、その修行方法として苦行か楽行かを選んだ。

        この苦楽二行は今もインド及び日本にまだ残っています。

仏 は……悟る方法として論法上の反省自覚の法を説き、推理推論(二辺見)を分別虚妄と排して

       不苦不楽の中道行を説いた。三観三諦の観法も妙法唱題の受持一行もすべて不苦不楽中道行

       である事は言うまでも無い。正像におけるあらゆる仏道修行も不苦不楽中道行であった。

 とにかく、仮→空→中の順に論法としての反省行を行ずるので空仮中三諦は成立するのでして、

論法反省を行じない限り妙法は成立せず・妙法蓮華経は現出せず・一念三千は成就しないのです。

南無妙法蓮華経の七字を拝してみれば、『在る事・在る法』(実存事法)は『法』と『経』(破迷の教え)との

二つだけです。厳密には『法』の一つだけです。

『南無』と『妙』と『蓮華』(因果・行業因果法)との三つは『在る事・在る法』ではなくて『知る事・知る法』で

あります。特にこの中でも『南無』の一つは『知るべき事・知るべき法』です。これらでわかる様に仏法は

必ず『智法』(仏慧の法=般若法)でありまして断じて『境法』ではないのです。

なお、般若とは(仏の)浄明慧(清浄で明るい智慧)という事です。

 また、以上で判る通りに実に六師外道は『推理推論で境法を説いた』だけです。

つまり推理推論に由って…(無明覆障の産で推論結果も無明覆障のまま)…『無形存在の学』たる形而上学

を説いただけなのです。説かれた法は単なる俗諦にすぎず、無明覆障のままなので『分別虚妄』と

排されたのです。これに対して釈尊は断固・形而上学を排し客観境法学説を排しました。

この事は阿含部(『中阿含』)『箭喩経』等ですでに明白で・竜樹・天台・皆しかりです。

仏の説いた法は『縦型反省論法の智法』だったのです。客観は『応用・技術化・使用』と三連に変えないと

効用を顕わしません。しかも『使用』はまさに実存智法であって、もう客観ではないのです。

 しかるに仏法は常に『智法』であって断じて『境法ではない』事……この当然過ぎる常識さえも通用しない

とは何たる事でありましょうか。仏法がもしも境法学説であって推理推論で会得されるものならば、信行は

一切無用でありましょう。大学を出て博士にでも成れば済む事ではないでしょうか。

仏教学従事者は皆・得道成仏してしまう事でありましょう。

こうならば正宗の宗門そのものも無用の長物な筈であります。反省も唱題行も何も彼も仏道修行の一切は

すべて要らぬ事であります。現実の事実は決してそうではない……という事は、

間接ながら・仏法は反省自覚の智法である事を立証しておりはしませんか。

仏出世以後の六師思想は、実に是くの如くに一大邪義なのであります。

『内外一致』は、これに勝るもの無き一大邪悪義なのであります。

 次も内外一致の一大邪悪義なのでありますが、宗祖は「妙法は一切衆生の仏性である」と仰せなのに、

現代人……特に学会員は・全員と言っても良いほど・妙法を客観上の法だと思い込んで

その中でも特には「外界の客観存在法だ」と思い込んで、池田大作氏の「妙法は宇宙の実在根源法である」

という主張を皆が信奉しております。これが正しければ仏法は『研究』(と応用)だけが必要であって『修行』

は一切不要でありましょう。それなのに・修行しても修行してもこの妙法をなかなか覚知体得できないのは、

一体どういう訳なのでありましょうか?宇宙に普遍に実在している事が判っていながら得られない……

こんなバカな事が一体有得るものなのでしょうか?これ(池田学説)はとんでもない事で、「所詮一心法界

の旨を説き顕わすを妙法と名く……若し己心の外に法あり(私註 宇宙も宇宙の法も己心の外の法である)

と思はば全く妙法にあらず(私註 宇宙に在る法は自然科学上の法だけであって妙法などではない)」

(一生成仏抄)・「夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり」(聖愚問答抄・他諸抄)・「此れ(宇宙に遍満す

る妙法の理・という考え)は大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります(私註 宇宙は仏身ではない。

故に妙法ではない。与えて宇宙内の地球上での社会性を取り上げても六道しか見当たらない)。……。

実際には仏の御智慧のうちにのみ(私註 であるから決して宇宙の方には無い)厳然として具はり玉ふので

あります」(『日蓮大聖人の教義』日淳上人著)・その他・一切の経釈論・に違背します。

為に氏は『六師法を広宣流布』する事に成っていて、悲劇を通り越して迷惑なマンガです。

 仏法での法は必ず「法は十界十如因果不二の法」(『玄義』)・つまり各人の体験法であって、客観した

科学上の法ではないのに、池田氏は、十方法界=全法界=宇宙法界・と解して我々に(昔から)説き続けて

きました。私もこの話は耳にタコが出来る程聴かされて参りました。しかしこれは誤っております。

法界の内容に宇宙を挙げるのは梵我一如を説くバラモン六師の方でありまして、仏様の方ではないはずで

あります。私達はまず『法界』という事の理解からして気を付けなければなりません。

池田氏は盛んに「宇宙法界」を説きますが、仏法では『法界』という言葉は宇宙を指して用いられた語などで

はないのです。

 御書には『一心法界』と、己心法界の中のものとしての十法界(地獄〜仏界)と、同じく己心法界の中の

ものとしての『十方法界』……誰かの作動智(現念)に縁待して働きつつある境(依報・しかもその内の非情

依報)世界・必ず誰かの五陰世間と縁待しつつある国土世間としての法界……とは説かれていますが、

この十方法界といえども内容は四種仏土……別しては凡聖同居の娑婆世界……でして決して抽象十方

法界や客観宇宙法界などではなく、ましてや客観宇宙法界などは御書にも一切経にも説かれてなどおりま

せん。宇宙のほうは「器世界・三千大千世界・六合」等と表現されております。

 仏法で説く・己心・一心・一念・が抽象的な一般心(普遍存在)なのであればこれは最早・心理学研究でしか 

なく決して仏法ではありません。仏法での・己心・一心・一念・は必ず『誰かの作動しつつある現念』である様

に、『十方法界』もまた・この作動現念の中に於ける……これと縁待しつつある応作十方法界・でありまして、

決して一般化(普遍化)された宇宙法界などでは有得ません。だからこそこれ(十方法界)について十界(の

区別)を論ずる事が出来る訳であります。「一心一念法界に遍(あまね)し」(妙楽)……これを深く洞察し

考えてください。一心一念は微少(持つエネルギーは微少)(三重秘伝抄)です。宇宙に遍満するには・天体

規模でもまだ足りない・想像を絶する巨大なエネルギーが要りしかも150億年もかかります。こうなのにこの

法界がどうして宇宙法界で有得ますか?

客観宇宙は非法界の法。法界は己心実存の法。両者を混同しないで下さい。

 池田氏は「妙法は宇宙の実存根源法である」とは言いますが、この主張の宇宙が『客観宇宙なのか

実存宇宙(一人一人にとっての体験宇宙)なのか』を自分のほうからは決して明かしません。

御書の「一心法界」の御金言完全黙殺です。明かさない所が氏の、このインチキの『ミソ』なのです。

この点を明かしてしまうとたちまちぼろが出てしまうからです。若し実存宇宙なのであれば、妙法は仏様の

実存宇宙には有っても、迷者(六道九界の人)の実存宇宙には全く妙法のカケラもありません。

これでは宇宙根源実在法ではありません。若し客観宇宙なのであれば、その中に妙法が実在する訳など

有得ません。何故なら妙法は御仏の実存智法であって客観存在法ではない……(だからどんな大科学者で

も発見不可能)……からです。

 池田氏は以上の様に宇宙法界を説くので次には『宇宙のリズム』を説かざるを得ないのでしょう。

「祈りとは大宇宙のリズムに合致する儀式といえる」(『仏法と宇宙を語る』)等々、色々に言っていますが、

要するに「宇宙には妙法のリズムが脈動している」と言っております。でも、総勘文抄に引用されている

『口決』(妙楽)の『天地運行』……妙慧(妙法大慧・大般若)で開会すべき所開法の『法身種子』論・……は、

単に妙楽大師が生活された地域に即した諸運行……能開の法華妙慧で開くべき所開の種子……を述べた

ものでした。宇宙どころか・宇宙に比べれば微塵にも満たない単なる一惑星に過ぎぬ地球の・

しかもその又北半球の『単なる地球の北半球のその又・温帯』という狭い生活地域(国土世間)での『天地や

五行(五大)等の諸運行』でしかありませんでした。つまり大師が生活した『実存天地五行』で客観天地等と

は別物でした。

 『仏性・如来』の『種子』(所開の種子)としての……『妙法大慧で開けば仏性や如来になり・妙法慧で開か

なければ決して仏性や如来にはならない』ところの『種子』(素材種子)としての『天地や五行などの運行』

です。つまり『生活法界(実存法界)の種子』です。こういう『狭い温帯天地の竣工』は仏徒が信仰生活上で

受け止めている実存であって、超銀河団までの雄大な重層階層構造を持つ『広大な宇宙のリズム』なるしろ

もの……(極めて怪しい概念である)……とは全く別物です。これはほんの一例でありまして、仏典で『宇宙

のリズム』を説いたものがありましたら教えて頂きたいものです。梵我一如に起因する『宇宙のリズム』説は

人心を幻惑(眩惑)するハッタリの極・騙し言葉・でしかありません。「宇宙法界」とか「宇宙リズム」とか言う

『宇宙論』は、バラモンと六師と……(彼等の過半は客観論者であった)……は盛んに説きましたが仏様は

説きませんでした。そして今又・池田氏が盛んに『仏法に名を籍(か)り』て説いているのです。

氏が現代の六師外道である証拠です。

 そもそも『覚者(仏)抜きの妙法』というのは有得ないのですが、「法界」と言う以上、『妙法が無い法界』

少なくとも『妙法を顕現出来ない法界』というのは有得ませんし成立ちません。池田氏はしきりに『宇宙法界』

を言い立てますが、これは妙法が(客観上)宇宙に無ければ成立たない熟語です。氏はまだ地球も誕生しな

いビッグバン以来(人間抜き覚者抜きで)『妙法が宇宙にあった』と勝手に思い込んでいるので「宇宙法界」

を言い立てる訳です。これでは科学も信仰もごちゃごちゃで、信仰は己心の法(一人称命題・実存智法)・

科学は心外の法(三人称命題・客観境法)・という区別さえ弁えておらず、客観・科学・は仏法とは違って

一切を『対象化・境法化』して取り扱う『法界外の法』なのを知らないのです。

 さて、妙法が宇宙に在る法ならば、これは必ず人間には関わり無く存在する普遍存在であって

必ず百五十億年前からの『実有・現有』で無ければなりません。人類発生のたかが二・三百万年前にやっと

宇宙に備わった法……などではないはずです。と言うのは、(人間が認知した諸法・以外に諸法と言うもの

は在得ませんが)「諸法は現量に如かず(諸法を知るには現量が最優先する)」(真言見聞)で『人間が認知

した所の』諸法・つまり・縁起仮有・縁生仮有・である諸行無常(諸行・諸法・は常住ある事無し)な『仮有』…

仮有は必ず現量(感覚知)か比量(推理知)かのどちらかである……は是生滅法(是れ生じては必ず滅する

法)であって『宇宙に在る存在法』(普遍存在)では有得ないからです。なお、現量と言うのは当人が五根で

感覚して獲た知識・比量は当人が演繹や帰納や類推で推理して(意根で)得た論理的な推理知識・の事です。

『一心法界』の『事法』では他人の現量や比量は取り扱いません。必ず『当人(自分)の現量と比量』です。

他人のそれは『理法』で取り扱うだけです。仮有とは以上のような事でした。

 話を元に戻します。ところが・実有・厳有・では空にも中にも成る事が出来ません。

何故ならば『必ず仮有の故に必ず空・必ず空の故に必ず中』であって、仮有が空にも中にも成って

円融するので「妙有」(『玄義』)と言われるからです。顛倒衆生(六道の迷者)の現量(感覚知識)又は比量

(推理知識)……これが虚妄仮有でありますが、この虚妄仮に対する(論法反省である所の)

『双遮(反省両否定・二重反省否定)・双照(反省両肯定・二重反省肯定)』(非非・亦亦・と云う反省四句分別思

量)を経て『妙中から(再度)双照した仮有』が『妙有』なのでして、妙有→妙空→妙中・と円融して実存智法の

中道一実円融三諦(妙法)に成る訳です。

つまり、法(実存諸法)は所開の種子・妙法大慧は能開の仏智(大般若)・ではありますが、

仮有でなければ現象法は『妙有』には成れません。

能開・所開を論じたとて『宇宙の法は妙法大慧の所開なり』は成立ちません。

実存法でないと所開の法には成れません。客観法では駄目なのです。実有・厳有では妙有に成れません。

特に、人(のカルマ=業)から離れた・実有・厳有では絶対妙有には成れません。妙有でなければ、法は妙法

ではありません。つまり『宇宙に在る法』では妙有には成れないのです。

同じく「宇宙」と言っても、客観上在る宇宙と、誰かの己心に存する宇宙とはまるっきり別物なのです。

 妙有に成る事叶わぬ厳有法は妙法どころか『麁法(粗法)』でしか有得ません。

つまり、妙法は『宇宙には無かった』のです。無いのですから、『有る』事を前提にして成立った…(無理に成立

てた)…『宇宙法界』と云う熟語も成立つ筈が無いのです。「宇宙法界」は単なる顛倒迷妄の『邪迷妄語』でしか

なかったのです。開目抄で御教示の様に『涅槃経』で「無義の語」と言っているのはこういう語の事です。

ですから正法の徒は決してこの「宇宙法界」という語を使用してはなりません。

昔は宇宙という用語はまだ無くて、三千大千世界とか器世界とか申しておりましたが、「三千大千世界法界・

器世界法界・三千大千法界」という熟語は無かったではありませんか。

「法界」は実存智法上の用語で客観上には用いないのです。

 実有・厳有という存在見(常見。我・つまり、アートマン在りと執した・アートマン見・我見)は、総勘文抄に

御教示の通り「無明に於いて『実有』の思いを生じて之に迷うなり」という顛倒見でしかなかったのです。

こういうのを『無効言語』と申します。これは『新種の死語』です。そもそも『実有』という事からして有得なかった

のです。『宇宙』は『法界』ではありませんでした。

『宇宙法界』も又この『実有の思い』に連動した顛倒見から生まれた無効言語でしかありませんでした。

しかもこれには更に・もう一つ別の顛倒が絡んでいるのです。

 「宇宙」の方は客観存在を指した言葉(対象言語)で・三人称命題界(客観命題)での概念。

「法界」(事法界)の方は己心の法上の存立出来事を指した言葉で・一人称命題界(己心命題)だけに限られた

対象言語としての概念です。もしも「法界」を三人称化すれば対象言語ではなくなり、メタ言語(高次言語)に

なってしまい、名同義異が発生し、理上の単なる抽象言語でしかなくなります。従って『事』ではなくなります。

小学生と大学生とで学校のクラス編成は出来ない様に、論理命題界が違う二概念で勝手に熟語を作る事は

背理で不可能です。「宇宙法界」は、客観上では、「宇宙」の方は事実上の対象の方を言表し、「法界」の方は

己心法での出来事、つまり思想を言語表明したところの・抽象上の『理解した概念』(メタ言語・高次言語)の方

を言表して、チグハグな熟語になってしまうのです。実存上では両者の関係が客観上とは逆になります。

対象言語とメタ言語とで熟語を作る事は出来ません。強引に作れば、出来上がった熟語は、対象言語でもな

ければメタ言語でもない……どちらの機能も持てない『バケモノ言葉』になってしまって、使用言語としての

働きが無くなってしまうのです。こういうのが『無効言語』(新種の死語)です。『虚妄分別』です。

こういう事ですので『用いる言葉』としての『熟語』というものは、上下二語の両方共に『対象』を言表するか・

両方共に『理解した概念』(思想)を言表するか・でないと正当な熟語として成立しないのです。

「宇宙法界」なる熟語はこのように概念背理でした。矛盾言語でした。ですから、再び強く申し上げますが、

概念背理な「宇宙法界」なる熟語は決して使ってはなりません。

 『分別虚妄』と申しまして、世俗での分別は・結局は・悟りに対しては・皆…すべて虚妄なのではありますが、

それにしても『無効言語』というものは実際には色々使われているものでして、これ(宇宙法界)などは

分別虚妄の中でも『極めつきの虚妄分別』と申すべきものでありましょう。

この中でも一般によく知られているものを挙げてみましょう。

実体 (存在体において自己同一な分の体。つまり常一主宰・アートマン・サブスタンス)

本質 (実体の性質ついて自己同一な分の性質・つまり・自性・・スヴァブハーヴァ・エッセンス)

自己同一 (自同・アイデンティティ。形式論理学の同一律とは別物)

天国・神の国・あの世・黄泉の国・冥土・八紘一宇・高天原・密厳浄土(この浄土を説く『密厳経』などは、恐らく

は、論が経に昇格したものであって、厳密には偽経なのであろう)・往生成仏・等々……キリもありませんが、

自然弁証法とか、客観弁証法とか、推理論法(論理ではなくて論法の方)とか、反省論理(論法ではなくて論理

の方)とかもそうです。「宇宙法界」もこれらの内の一つだったのです。

 以上の内、代表として『自己同一』…(これは八不中道の不一不異と真向から衝突する)・・・を取り挙げて

無効言語である事を証明しておきます。他は例してその無効ぶりを察知し、『言葉に依る騙され』の恐ろしさを

知って頂きたいと思います。「宇宙法界」も『騙し言葉』の一つなのです。

 自己について変わらない分を自己同一(自同・アイデンティティ)と申します。この「自己」は、総じては万物を

指し・別しては人間…特に個人を指します。ところで、この自同は、そのもの(自己)の存在時間幅を長く取ると

どんどん減少してしまいます。これは定量上の変化です。自身に就いて、1ヶ月間での自同と50年間での自同

を較べてみると、前者は極めて大・後者は極めて小・で大幅に減ってしまいます。更に、50年前の1ヶ月間での

自同と50年後の今の1ヶ月間での自同とでは、100%ではないものの大幅に中身が違ったものに成ってしまっ

ております。これは定性上の変化です。

 以上を一括して申せば、現実には『常一』(常一主宰の常一)ではなかった・という事態に陥っているという事

です。つまり『自己同一という言葉の中身が・質・量・共に変わってしまった』という事です。だいたい「同一」と

言って変わらない筈のものが変わってしまい、概念内容(言葉の意味内容)が破綻してしまったという事です。

つまりこの言葉は無効言語だったのです。仏法の不一不異の方が正しかったのです。

実体や本質もこの『自同』の支えで成立っていたのですから、実体や本質もやはり無効言語なのでした。

仏説通りに・無我(無実体)・無自性(無本質)・の方が正しかったのです。

 同じように、一心法界は正しく、宇宙法界は不正で無効言語です。虚妄分別です。こうした虚妄分別や

分別虚妄(流転迷者の分別)に対して、仏様の分別だけが如実知見で正見なのでした。

この正見を述べた言葉だけが「文字は三世諸仏の気命」(天台)なのでした。

この事が「(仏は)但(ただ)仮の名字(仮名・けみょう)を以って衆生を引導したもう(『法華経』方便品)という事

です。その故は「仏の智慧を説かんが故なり」(『同』)という事でした。

 なお、以上に関連して念の為の付け加えておかなければならない事を申し述べます。

それは仏法で論ずる『我』についての事です。仏法が論ずる『我』には内容が三つあります。

『我・我所・仮名我』の三種です。一番目の『我』はアートマン・実体・の事でこれは既に論じ尽くした通りです。

二番目の『我所』は『我が所有』という意味で、単に自分が所有する財物等ばかりではなくて・自分の肉体や

子・孫・等の肉親まで含みます。でも、自分の肉体といえども法則通りに変化していく『法所』(法所有)であって

自分の思い通りにはなりませんので真の意味では『我所』と思うのは誤りなのです。果ては自分の心さえも・

意馬心猿で、自分の思い通りにはならないではありませんか。心もまた我所ではなくて法所ではありませんか

つまり、以上の二つは誤謬概念なのでした。

第三番目は『仮名我』ですが、実はこれだけが『正しい我』『誤謬概念ではない我』なのです。

中でも仏界の仮名我が『非我不非我なる如是中道仮名大我』です。

この仮名我は一般には『大乗の大我』として登場して参ります。

 大我(仮名大我)は無我八大自在である事を内容とした・縁生我・縁起我でして、

「我は但之れ名のみなり」(『止観』取意)という『名だけの我』の事、つまり『呼び名としての我れ』(汝・彼・に対

する自分の呼称・一人称代名詞)という事です。大乗に於ける四大真徳(常・楽・我・淨)の我はこの様な『無我

なる仮名我』でありまして、常楽我淨の四徳共に『外道の同名の四徳』とは内容が全く異なるのでありまして、

名同義異である事、実に天地雲泥の大差であります。御義口伝に御教示の「経に四導師有りとは今四徳を

表す上行は我を表し無辺行は常を表し……」の「上行は我…」というのもこの仮名大我であります。

 でありますからこそ『涅槃経』で仏界の四徳を説くには「法身が(不断不常中道の)常・涅槃が(不苦不楽中道

の)楽・仏が我・法(仏施教の法・教法)が淨」と明かされている訳であります。

ところが池田氏は『凡夫有為の四顛倒』を起こして「無我に於いて我と執する顛倒」(『倶舎論』)

「無我を我と謂(いう)……是の如き等を名けて四顛倒となす」(『大集法門経』)を地でいって、ことごとく

摧尊入卑してしまい、あくまで実体我を押し立てて万人に六師義仏法を押し売っているのです。

これ分別虚妄以前の極めて悪質な虚妄分別でありまして、まさしく六師義天魔の行為そのものです。

仏の如実知見・正見・如法中道……一切が斯して破壊し尽くされてしまいました。

迷者の四顛倒・愚慢の顛倒・誠に恐るべき事であります。

仏法・仏道修行においては、如実こそが誠の真実でありますが、我々は・何が真実であり何が顛倒であるかを

よくよく見極めないと池田氏等にやすやすと騙されてしまいます。

 今の人は『顛倒問題』に余り関心を持っていませんが、昔・内外相対に関して論議が盛んであった時代に

は、『顛倒(二辺見の人)であるか・正見(離二辺見の人)であるか』は大問題でありました。

そしてこの事は、基本的には法華法門においても全く同じなのであります。

『法華経』寿量品の「令顛倒衆生」の五字は決して軽視しないで下さい。この事に就いて実は『涅槃経』の

雪山童子の四句偈が、上半二句八字が顛倒見を示し・下半二句八字が正見を示した・『見』に関する

『内勝外劣』(内正外邪・内外勝劣)の教えであります。「諸行無常是生滅法」(諸行は無常なり・是れ生じては

(必ず)滅する法なり)は二重叙述になっておりますが、ここでは『顛倒』に関してこの内の更に上半句を問題に

いたします。

 観察上「諸行(事・事法・現象した一切万法) 無常(理・理法・現象が示している道理)」という叙述判断は、

まだ何の推理も加えていない直接認知の現量である「諸行」を「無常である」と叙述した比量であるとはいえ、

一括してまだ現量でありながら世俗上での真理です。また、まだ俗諦でしかないとはいえ、不易不変な

帰納真理です。真諦の側から(反省否定される事はあっても)抹殺否定(排除否定)されてしまう事は決して

無い『不易不変の真理』です。この様に真実な道理……『理法』の方は、一般化すれば「(境智一体の所に)

実在する」と言っても一応は許されるでしょう。こういう実在観は(仏法の側からは否定されますが)世間では

いつでも容認されている所です。

 でも、この真理が教えている様に、諸行という『事法』の方は、常無く変わって行きながら……変化を連持し

ながら・『仮存し続け』ているだけです。実有ではないので決して実在はしていません。

真理・法則・理法・如法・は全ての各人の『己心法界』の中に『変わる事無く』『常住』しますが、

この『不変に常住する道理を顕現する本体・つまり・事法』の方は、己心の中でも世間の中でも・決して常住は

いたしませんし不変でもありません。必ず『無常』(無常住・常無し)です。

ただ他の事象とは異なる特徴を示しつつ佇まいつつ・変化しながら連持するのみです。

以上の『事・理』を理法の方へ包み込んだ一括一体で抑えれば・真理観(悟観・離二辺正見)上・

『不断不常なる常住』……(仏法で「常住」と言うときは必ずこの意の常住です。世間で言うような・瞬間も絶え

る事無く続く常住・の事ではありません)……をしている訳です。ここの所を『法性』と申します。

そして以上を俗っぽく申せば「真実な法理の方は実在し(その法理の事体である)現象(諸行)の方は

実在しない(仮存するだけ)」のです。これ(この見方)は二辺見という俗観です。

そして仏法では一貫して「二辺見は極端説である。見惑である」と却けられております。

この二辺見という見惑から『我空法有』(小乗アビダルマでの誤った主張)等の『法体実在論』や

『法身中心主義』が生まれ易いのですが、この事は誤りであります。『騙され易い迷妄顛倒』なのであります。

池田氏の場合は六師外道そのままな『我有法有』(徹底した著有論)なので、仏法正義の『人法二空』に違背し

アビダルマよりもなお性悪な『愚迷有為の顛倒』であります。

 仏様が如実知見遊ばされた仏法での法理は皆是真実でありますが、道理が真実である事は決して

『道理の本体である事法』の方が実在している事を意味などしておりません。

「実在」の語を用いるのは宜しくないのではありますすが、あえて用いますと、実在しているのは法の『真実性』

の方だけ……(しかも人の心の中に実在しているだけで外界の方に実在しているのではない)……であって、

法(現象法)の方が実在しているのではありません。

現象法のほうは・実存しつつある人間の理念に縁待しながら・かつ変化を連持しながら・『仮存』し続けている

だけであります。『真実イコール実在』(法の真実=法の実在……二個の「法」の語が理法を指すのか事法を

指すのか曖昧なままです)……これがまず勝手に短絡した誤りであります。

これが大迷妄である事は次の通りであります。

 「唯此の心(心体・心用)但是れ法性なりと信ず、(此の法性に対して)無明に於いて実有の思い…(私註 法

は実在するという虚妄執はここから生ずる)…を生じて之に迷うなり」(総勘文抄)。

この様に、何の法に就いてにせよ、無明の人だけが「実在」を主張するのであります。

 一般人の心の中には「万物万事・何でも存在であり実在でありさえすれば安心だ(実在でなければ不安だ)」

という心情(情念判断)…(「諸の情量を絶せよ」(御抄・もとは天台伝教の言)と教え戒められている情量)…が

潜んでおりまして、この為に無意識で何でも『ムリヤリ実在化してしまう』…(実は単なる・抽象化・普遍化・に

過ぎない。事態の方は人の心情には関わり無く存立しているから決して実在化などしない)…誤った悪い癖が

あります。万物万事に対して自分の無明の力で『実有の思い』をデッチ上げてしまうのです。

妙法以下万法に就いて池田氏もそうしてしまったのです。

 宇宙の妙法・なる池田説が御書以下経釈論一切に違背しているという事は『妙法は客観存在法…

(こうならば俗諦です。真諦ではありません)…でない』『妙法は宇宙の実在根源法ではない』という事です。

仏法は六師の様に自然科学(俗諦)とまぜこぜに法を説く事など致しませんから之は当然の事です。

仏法であらゆる『法』は全て人間の『現業』(身口意三業の現在業)を因とし・本有の念根という業依と・

通常『業縁』と呼ぶ習わしになっている相応諸法(相い呼応して来る諸法)つまり、

善法・悪法(一例=目的意思の強弱と、詐欺ならば詐欺行為に用いる・詐術・テクニック・のような悪法)と

さらに、それを仕向ける相手・用いる道具・などという業境とを・縁…(縁は必ず・業依・業縁・業境・の三重であ

る)…とし、この(多重に)因縁和合した実存縁生法(縁起した法)であり、

この為に『法』は皆『己心の法』であって、しかも『覚知法』(知る法・知るべき法・悟る法・会得出来る法)でして

『存在法』(ある法・認める法・認識した法)ではありません。

法の性質上・会得(修行による体得)は出来るが『認識不可能な法』なのです。

『客観→分析→総合』による会得は効かないのです。

 『法を認識している』と言う人は、法の体験実存法から独自実存分を切り捨てて普遍分だけを残し・

この抽象化した『理だけ』を勝手に外化独立させて認識しているのにすぎないのです。

これは迷いであって悟りとは程遠い事です。

法性法が原理的に認識不可能である事は、仏法での事法は『分別ではなくて無分別である』という事です。

「法の身寂の義を思うて諸の分別の想い無かるべし」(『普賢経』)と誡められ、言語道断(推理推論無効)

心行所滅(概念操作無効)と説かれる所以です。詳しくは総勘文抄や法華結経『普賢経』等を拝見して下さい。

 でありますから仏法での法は全て『仏様が体験された』仏己心の実存法であって、

誰の体験も要しない所の・大衆(一般の迷者)にとっての客観実在法・などではないのです。

つまり、存在一般(客観上で言う一般存在法=『境の素』)を、体験当事者自身が自分の『智』(信智)で

相手取って獲た個人経験上での『実存覚知法=念作動で境智和合した智法・つまり般若・

報身智知の法』なのであります。

 もちろんこの『当事者』は、総じては妙法を信奉するあらゆる人・別しては覚者であられる教主御仏御一人・

であります。この様に実存法である以上は、法は必ず・実存会得の人を離れては成立せず人に即しての法・

のみであります。従って宇宙の側に具わって在る訳は金輪際ありません。これでは・境智顕離・人法別箇・

でありまして境智冥合にも人法一箇にも反し、この様に池田説は根底から誤っているのであります。

 「妙法は宇宙の根源の法である」という実に始末の悪い考えは、決して池田氏の創始に依ったものではあり

ません。正確に言うと・バラモンや六師外道の『梵我一如』説の仏法版なのであり、

元来これは原始人の思考方式から生まれたもの…(不条理真理)…なのであります。

原始人は存在する自他一切を差別しませんでした。人も動植物も山川草木国土……

一切合財を『同質』と心得たのでした。何もかも自分側(人間側)へ引き寄せて同質化してしまい、

つまり『一切を擬人化』して心得ました。これがアニミズム(万霊信仰)です。

 理性知性上からは明らかに不条理ですが、そんな事にはお構いなく『そうであれば良い』という願望のままに

この情念のままに決定論化してしまった訳でした。こうなので、アニミズムでは生者も死者も人も神も自然物も

何もかも『同質』という事で、この擬人化を裏返せば人間の・擬神化・擬天化・も易々と成立ってしまいます。

この一例がバラモンや六師では人間の梵天化・非想天化です。キリスト教ならば召されて天国へ行くという

思想です。古代インドでもそうでしたが、昔のギリシャの神々はキューピット・諸天男女・その他、皆、

擬天化された人間そのものでした。

 日本人の祖先は『温和な恵みの太陽』を擬人化して天照太神を生み出しましたし、インド人の祖先は『苛烈な

灼熱(恐るべき苦である)の太陽』を擬人化して日の神スールヤ(大日天)・風の神インドラ(帝釈天)・火の神

アグニ(仏法では護世八天の一つ)・と共に原始バラモン三大神の一つ・とその仏法版(真言など密教の)大日

如来とを生み出しました。これは災いの苦を与えてくれないように懇願し敬遠する対象でありました。

温帯と熱帯とではこうも違ってしまうのであります。現在でもアフリカの移動牧畜民は「牛は俺の弟だ」と言って

いるそうです。人間と牛とを、区別・差別していないと言う事が生活の在り振りに成っていて、

その心理を言えば牛を擬人化している訳であります。

 実は『アニミズム』と云うものは、個在観と綯い合せで、こういう(以上のような)考えから出て来たものであり

ます。動物ばかりか、木でも岩でも何でも、あらゆるもの……無生物である山川草木一切合財までを擬人化し

た所に、天の『神』・地の『神』・山の『神』とか『魂』『霊魂』とか、そうしたものが出てまいります。

現代語で『生命』といっても同じ事であります。この辺で止まっていればまだ良いのですが、地球も月も太陽も

星も、果ては宇宙全体までも、皆、擬人化してしまう訳であります。しかも、考え抜いた挙句にしたのではなくて

もちろん・道理に従って得た結論でもなくて、これは単に「そうであれば良い」という感情上の願望で、した事で

しかなかったのです。人情・感情・情量でそうしたのですから「諸の情量(情念判断)を絶せよ」(伝教)と言われ

る所以です。

 命(霊魂と言っても同じ事)有るものは全部『人間並みのもの』という考えは、昔の日本人は皆そうでしたし、

太古から世界中の人が皆そう思っておりました。更には・命の無いものまでも擬人化してしまったので「宇宙は

生きている」と思い込む訳です。この後は宇宙を生き物として扱うから、人と宇宙との差別が無くなり、区別が

無くなるから、「人間を支配している根源の法則が宇宙をも支配しているに違いない…」と、こう成るわけです。

それを更の考えてみると、誤りなのですが、「宇宙の方が先住者だからこの根源の法は元々宇宙の方に

在って、これが宇宙内存在である人間の方をも支配しているのだろう…」という事に成ってまいります。

でも、たとえこういう支配法則が在ったとしても一向に人生苦の解決にはなりません。

 「妙法は宇宙根源の法則である」というのは実は以上のような考え方……一口に言えばシャーマニズム

(依憑信仰)よりも更に古いアニミズムなのでした。つまり、原始人の考え方であり、これをやや理論化すると、

バラモン・六師の『梵我一如』(ブラフマンとアートマンは一体のものである、という思想)つまり、『宇宙即我れ』

の考え方に成ります。この『梵我一如』説は、科学説・俗諦としては正しい説です。

正しい説ですが人生苦の『生因や滅苦法』の解明をした実存説ではありませんので、人生苦に対しては

全く無力です。苦の解決には成りません。ですから解脱原理としては不正です。邪説です。

これは「人間は小宇宙である」と主張しているのですが、客観上・人間が小宇宙である事は当り前すぎて何の

『悟り』にも成りは致しません。『その一部の同質存在』(五大所造)として宇宙の中に在るのですから、

客観上では有情から草木等の非情まで全てミニ宇宙で無ければおかしい訳です。犬猫金魚の果てまで皆

小宇宙です。地獄人も小宇宙・餓鬼人も畜生人も小宇宙です。提婆も法然も弘法も小宇宙です。

流転迷妄身である事は一向に解決しないままです。これ(宇宙即我れ)が更に仏教憑ってくると

真言密教の胎臓界(法の世界)曼荼羅とか金剛界(智慧の世界)曼荼羅とかに成ります。

一人一人の人間が宇宙と同質一体…(同質一体は境智冥合とも依正不二とも全く違う事です)…である事を

主張し表現している訳です。これも内外一致の実例です。

 池田氏は真言宗に出自でしたが、真言のもとはバラモン思想や六師思想でありまして、

密教の教義は『バラモンや六師外道の考え方で仏教の看板を懸けた』という事であります。

元々原始バラモンが密教でありまして、ですからこの密教の後裔であるタントラ教でも『気』(呼吸)という事を

非常に大事にします。彼等は『気』が実体であり実在なのです。同教では、宇宙には三つの気(三主神)が在る

と言います。『創る気=ブラフマー神』『維持・発展・する気=ヴィシュヌ神』『壊して分解する気=シヴァ神』で

す。この内『創る気』…これがブラフマン(梵)から導出された代物であります。

元々・原始バラモンでのアートマン(我・実体我)という事は『気・呼吸』の意味で「呼吸機能が生命の根源で

統一の中心である」と考えたのでした。

 昔から中国でいう『気』も同じです。道教でも・ジャイナ教でも・バラモンでも・昔の西欧でも・原始人の考え方

は古今東西・皆同じなのです。『宇宙の気』という事を言うのは、常に・人間の側から類推して・

宇宙を生き物扱いしているからであります。宇宙を擬人化しているその思想が哲学的宇宙論になりました。

「妙法は宇宙の根源法である」と言って存在論化を行うのは、「最高梵(ブラフマン)」を「妙法」と言い換えた

だけの事の過ぎず、宗教と哲学とを(そして科学とも)分けなかった六師外道の考えでありバラモンの教えで

あり、だからこそ内外一致の邪義であり、もっと古い奥は『原始人の考え』なのです。

 宇宙妙法説というものは、この『原始人思考』へ理屈を付けて『存在論』にしただけで、根は全く同じ思考で

あります。この『哲学的な歴史経過のからくり』に誰も配慮していないだけの事であります。

更に、中国には陰陽学(陰陽道)が在りました。太極(玄気・とも言う。元気はその当て字)が在って、

『陽の気』と『陰の気』とがあり、これから八卦等も出てまいります。

また・大気・空気・エアー・をわざわざ「空気」と『気』の字を附けているのは大気を擬人化しているからです。

つまり、人間には気(生気)が具わっている・宇宙もそうだろう(類推)・と擬人化したわけです。

 これを出発点にして反省した結果、今度はこれとは逆に、宇宙に元々そういう『気』があるから

それが下がって来て人間に具わったのである……宇宙が本家・母体で、人間は分家・子孫であると、

元の擬人化から逆転した考えも出てまいります。

要するに、理性・知性の水準が低かった昔ではやむを得なかった考え…とも言えますが、

科学としても哲学としても幼稚で、しかも誤っている事に変わりはありません。

 この様に「妙法蓮華経は宇宙の根源法である」というのは、ばかばかしい程幼稚な間違い哲学ではあります

が、(人類の思想史上では)実に根は深いのです。

「(空気(風神でもある)という気が在るから)宇宙そのものが生きているのだ・神様なのだ」と言う。

これから創造神が出て参ります。キリスト教のゴッドもイスラム教のアラーも皆そうです。

アニミズムの万霊思想で『山の神』とか『地の神』とか神が分立している内はまだしも、

まとめて一体化してしまうと一神教化して・宇宙神・創造神・天地創造の全能神・に成り、

信仰でまとめずに哲学でまとめれば、古代ギリシャならば『原子』・古代中国ならば『太極』・古代インドならば

五大や(信仰と兼用で)ブラフマン(最高梵)・という事に成りました。

池田妙法はこれと全く同じものでしかありません。

 宇宙が生きているという考えは、池田氏が言う「宇宙生命」という主張にも成ります。

人も宇宙も同じく五大所造で・地・水・火・風・空・の五行要素で構成された『永遠の生命体である』というのです

が、人間は小宇宙であるとの主張根拠でもあります。しかし一切迷苦人皆小宇宙であって何も珍しい話ではな

く、これが判ったとしても何の迷苦の解決にもなら何事は既述の通りであります

これは元々、バラモン・六師の説でありまして、仏法での”発明”ではなかったものであります。

ただ、仏法では、この外道の『パラマーヌ=極微・色塵・の集りである五台各個の・地・水・火・風・空が、

それぞれ原子論的存在であって天然自然に個在する』という個在思想の誤りを改めて、

五行を人間生活に対する『縁生した実存法』としての地(縁生した性質法としての地大。以下同)・水・火・

風・空・に是正し、人身の色心を・地・水・火・風・空・識・の六大での依正縁起説に訂正して

承認を与えただけのものであります。

 梵我一如説も万物五行説も(解脱説としては邪説であるが)当時の科学説としては正しい説です。

正しい俗諦なので万人が易々と捕らえられてしまう訳です。不正説だったら誰も捕らえられはしないのです。

でも、御仏が我が身水地火風空…(この五大は実存五大であって客観五大ではない)…なりと知食して

即座開悟遊ばされた(総勘文抄)のは、六大仮和合の『色心縁起中道体である事』(真諦)を知食されたので

ありまして、五大要素による我が身(色法)の科学構成(俗諦)を知食されたのではございません。

この俗諦の方は知食す以前から万人に判り切っていた事にすぎません。

 「我が身……即座開悟」は仏の色心二法を示された御教示でありまして、「我」は心法・「身は地水火風空」

は色法。知食された所開の法は五大・知食した能開の智(仏智)は妙法大慧です。

この御文の少し前の御教示の通り、五大は、仏性・如来の『種子』…因種ではなくて素材種の方。

この『種子』は人間のカルマ(業・作業・振舞)ではないので・因(行因・因業)を意味する種子・の意ではない…

つまり『開かなければ決して仏身には成らない』所の『所開の種子』(境縁種子)でしかありませんでした。

 六師の五大は『客観五大』……しかも原子論的存在としての五大で、

(何時でも実存は色身二法を心法(智法)に包み込んで作動しておりますので)

仏様の『五大』は「色法ををさ(抑)へて心法という」(木絵二像開眼之事)『実存五大』です。

実存五大は・色・受・想・行・識・(五陰・五蘊)の内、『色』の、それも『色の単なる一部分=境縁』でしかありませ

ん。『五陰の色法』には、境縁の他に業縁(善悪二法)も有るし、直接な色だけでなく『声・香・味・触』の四法も

含まれています。つまり感覚した・前五識・五感覚(現量)・のすべてが色です。

この五陰色法の中には・この他に如是縁の全てを含みます。そしてその如是縁として、『衆生世間の働き(用)

の多数者の声・等の・口業・身業・の十界性』も「強きものは先に牽く」(『止観』)という『自身の・前業・先業・の

牽引身口意三業』もあるのです。「如是縁とは縁は縁由に名く……無明・愛・等はよく業を潤す即ち心を縁とな

すなり」(『止観』)です。このような色の全体からすると、五大は単なるその一部に過ぎず、この様に『五陰中に

占める五大の役割』は非常に低いのです。五陰と五大との関係は以上の通りですのに、そして、仏は尊極の

衆生でありまして、しかも五陰仮和合を衆生というのでありますのに、『未だ五陰仮和合せざる以前の五大』が

どうして『そのまま妙法仏界』で有得ますか!

 まさか「原子や素粒子は妙法(の当体)である」という人は居ない事でありましょう。事情は五大に就いても

全く同じです。それなのに「五大は妙法(の当体)である」と言ったらどういう事に成りましょうか。

素粒子であろうと五大であろうとこれらは・一心と縁起して・仏を造れば・『妙法の材料』には成った訳ですが

『妙法そのもの』でない事は明らかです。

因としての『妙法の種子』は『妙法を信ずる』という因位迷者の『信の一念』だけであって、材料……それも単な

る構成素材(境縁種子)でしかない五大は『妙法の因種としての種子』(業因種子)でもない事も明らかです。

この五大は六道九界の凡身を造れば『妙法の材料』でさえもありません。原子・素粒子・五大・等は、

仏身に囲い込まれれば仏界(妙法)に成り、六道身に囲い込まれれば六道(地獄〜天)でしかありません。

この場合には麁法のままです。『非情にも十界を具する』という事は以上のような事でして、非情の十界性は

非情の自己決定ではありません。どこまでも覚知心へ非情を囲い込んだ実存人の己心が決定するのです。

 つまり、五大等の非情というものは置かれた事情次第…(この事情は能動者である人間側(一心側)が

作り出すものです。)…で地獄にも成るし仏界にも成る・麁法にも成るし妙法にも成る・これそのものが・単独・

独立でそのまま妙法なのではない・という事なのでした。

ともあれ、この『五大を素材にした永遠生命説』…(これは六道を輪廻する永遠生命説である)…は、バラモン・

六師の外道説であって、その後の出現した仏教(釈尊)が引き継いで訂正を加えて承認を与えただけであり、

仏教の眼目がここに在ったのではありません。

 仏法での眼目は、この上に立脚した『永遠の仏界』を説くところに在りました。

これが『法華経』の寿量品であります。悟れば妙法(の依報)にも成る『単なる下地素材』に過ぎない『単なる

永遠の生命』(つまり六道流転の三世の生命)を勝手な解釈で「妙法だ」と思い込むから

「妙法は宇宙にあるのだ」と勘違いし、迷妄六道流転でしかない『永遠の生命』と

解脱本有無作の『永遠の仏界』とを混同して、真俗(二諦)の勝正劣を破った「妙法は宇宙の根源法である」

と言う真俗一致の池田説の成ってしまったのでした。これ『内外一致』です。『勝劣門下の怪』です。

これが致命的な誤りである事は再々説明してきた通りであります。

要するにこの説は、この上ない大謗法なのであります。

 以上の様に、実に六師思想というものは・仏法以外の各宗教にも・各哲学にも・世俗の一般人にも・

共通した通俗思想そのものなのであります。

だからこそ受け入れられ易く、万人が簡単に捉えられてしまうのです。

「わかりやすい現代解釈・やさしい説き方……」などと言う甘言に騙されてはなりません。

 こうしてみると次の・妙法観・一念三千論・というものは、いかに出鱈目でインチキな「世間の荘厳の文飾・

無義の語・を安置」した破法のものであるかが知れるではありませんか。

皆様の手元にある著名な本の一文ですから自分で確かめてみてください。

文中・赤字にしてある部分は、ことごとく誤っている部分を示したものです。

しかも全体が、自覚論を存在論(境法学説・無形存在学・つまり形而上学)にしてしまっており、

こんな仏法など有るものではありません。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

(以下・全文を引用するのは冗長に過ぎるので略引とする)

仏法の認識論……三諦について……

[本文]

……、ことごとく、哲学とは、対象そのもの、そしてその奥にある実体・本質・への解明にあったといっても

過言ではありません。つまり哲学の命題は、真の実在とは何かという問いかけに出発しているのです。…、

仏法では、三千年前、法華経において、それをもとにした千五百年前の天台の哲理において、

いとも簡明に、この問題を解き明かしております。これが三諦論なのです

 三諦とは、空諦、仮諦、中諦の三つをいいますが、……・宇宙の森羅万象の実相(真実の姿、実在)は、

この三つの立場から、誤りなく明らかに把握することができるということです。

つまり、三諦とは、仏法に説かれた認識論であるということができます。

 三諦をそれぞれ説明しますと、まず仮諦とは、万法(一切の現象)を物質面現象の変化の面から

みていくことです。

万法は、ことごとくおのおの仮に、因縁により和合している(仮和合)と認識するのが仮諦です。

仮とは一般の”仮象”という意味ではなく、いわば、存在変化の面、生成、発展の面をいうのです。

……以下本文中略……

 空諦とは、万法の性分をみる事です。性分とは、性質、知恵、感情等を指します。空とは、有ると言え

ば無く、無いと言えば有ると言う、有無の概念超えた存在であり、

物質的にとらえることはできないが、状態としては厳として認めざるをえない実体です。…、しかし、

絶対に無くなったのではなく、また縁にふれて現れてくる。このような存在を空といいます。

中諦とは、統一された生命体としての存在それ自体を明らかにみることです

それを常住不変の実体とみます。 

たとえば、Aという人の肉体は仮和合で、新陳代謝を繰り返し、瞬間瞬間に変わっていきます。

またAの心も瞬間瞬間に起こったり、笑ったりしています

しかし、この仮諦と空諦だけでは生命の真実の姿をとらえたとはいえず、

更にそこに常住不変の生命見る事が出来ます

すなわち、幼年の時、壮年の時、老年の時にも、一貫して変わらないAという人格が存在します。

このAをAたらしめている実在「我」といいこの本質に目を開いていくことを中諦というのです。

 (以下本文6ページはあまりにも酷く、冗長で繰り返しでしかないので省略する)

 私達が仏界を現ずるときは、……仏の振る舞いとなり、自然に大宇宙のリズムに合致し(応身)

……よくいう”全体人間”というのも、この無作三身の中にその実体があるといえましょう。

  ……以下略……

 

仏法の認識論……三諦について……(破折)

(私註 認識論・と言いながら認識論ではなくて存在論に成っている。仏法や仏法の三諦論は実存法としての

     反省自覚論…(縦型論法反省自覚論。単なる倫理上の反省行為ではない)…であって認識論ではな

     いのに認識論だと思っている。しかも客観法としての単なる存在論を述べただけで認識論にもなって

     おらず、存在を認識して説くのは存在論であり、この『存在を認識した』認識がどの様にして正当に

     成立したのかを説くのが認識論であるが、両者の区別さえ弁えておらず、完全に混同していて、

     結局・万事滅茶苦茶、何も解っていない迷妄の極みの珍説である)

 

[本文]……、ことごとく、哲学とは、対象そのもの、そしてその奥にある実体・本質・(私註 対象の奥には

実体も本質も無い)への解明にあったといっても過言ではありません。

つまり哲学の命題は、真の実在とは何かという問いかけに出発しているのです。……、

仏法では、三千年前、法華経において、それをもとにした千五百年前の天台の哲理

(私註 天台の法門は哲理『俗諦』などではない)において、いとも簡明に(私註 簡明どころか難解難入

である)、この問題(私註 真の実在とは何か、との問い)を解き明かしております。

これが三諦論なのです(私註 三諦論は宇宙万法の真実在を問うたものではない。

顛倒迷妄な衆生万人の各人所具の中道仏界を問うたものである)

 三諦とは、空諦、仮諦、中諦の三つをいいますが、……宇宙の森羅万象の実相(真実の姿、実在

(私註 三諦は、宇宙の万象を相手取った命題ではない。相手取ったものは我れの作用中の只今の一念

の迷妄作用そのものである)は、この三つの立場から、誤りなく明らかに把握することができるということ

です。つまり、三諦とは、仏法に説かれた認識論である(私註 非有非無=空 ・ 非有非空=中 ・

は認識論としては排中立違反で成立しない。成立できない『空・仮・中』を説いた認識論など有得ない。

これで判る様に、三諦は論法反省自覚論という自覚論であって断じて認識論ではない。

認識論なのであれば俗諦でしかない)ということができます。

 三諦をそれぞれ説明しますと、まず仮諦とは、万法(一切の現象(私註 この万法は己心変化の一切万法

であって外物の話ではない。)物質面(私註 修行者の己心の迷妄作用についての話なのだから物質面な

ど登場してくる訳が無い)現象(私註 客観現象だと思い込んでいる。大いなる見当違い。正しくは心数現象

である)の変化の面からみていくことです。

万法は、ことごとくおのおの仮に、因縁により和合している(仮和合)と認識するのが仮諦

(私註 これは未覚者(修行者)の感覚知識・つまり現量での虚妄仮であって仮諦ではない)です。

仮とは一般の”仮象”という意味ではなく、いわば、存在変化の面、生成、発展の面をいうのです。

(私註 仮を・与えて一般化して言っても・存在の変化面……などを論じたものではない。

当事者が当面した・依報・正報・にわたる実存境知二法の・それが・生滅法(生じては必ず滅する法)

である事と・更にそれが・九界のいずれであるか・とを論じて『仮』と言っているのである)

……以下本文中略……

 空諦とは、万法の性分をみる事です。(私註 空諦とは万法の仮を反省判断して得た諦『サトヤ』である。

性分など見てもサトヤ『諦』には成りっこない)。性分とは、性質、知恵、感情等を指します。

空とは、有ると言えば無く、無いと言えば有ると言う、有無の概念(私註 事物の、区別・違い・相違・

を教える・名辞・言葉が『概念』(コンセプト)である。有無は・万物に共通に言われる・名辞・記号・であり、

決して・概念の様に・事物の・区別・特徴・を教える事が無い。文の述部の用いられるものの・

概念とは全く異質な記号であって、言葉を用いた人の『判断』(ジャッジメント)を表す言葉である。

従って・有無は概念ではない。存在判断か叙述判断か反省判断か・いずれにせよ『判断』である)

超えた存在(私註 空は存在などではない。『空ずる』と動詞に用いる事が空は存在ではない事を

示している。空=非有非無は有無と同じく当事者の反省判断である)であり、

物質的にとらえることはできないが、状態(私註 空は当事者の悟観つまり反省判断であって・物の状態

などではない)としては厳として認めざるをえない実体(私註 縁起仮存の佇まいだから空に成れるので、

仮有に実体が無いのに空が実体を持つ訳が無い。実体空では中道に転化出来ない。円融も出来ない。

一切法皆是無実体・「空も亦復空なり」で、空の実体化は釈尊に厳禁されている)です。……、しかし、

絶対に無くなったのではなく、また縁にふれて現れてくる。このような存在を空(私註 存在は有『仮有』で

しかない、空ではない。無を有と言う事は成立たない様に・存在『ザイン』を空という事は有得ない。

仮有・つまり存立《この本が言う存在》に即して・人間側の識智が・空を獲るだけである。

空は人の反省判断である)といいます。

中諦とは、統一された生命体としての存在それ自体を明らかにみることです(私註 一色一香無

非中道と、非生命体に就いてさえ中諦は言われるのである。生命体としての存在自体をいかに科学的に

又は哲学的に明らかに見たとて虚妄仮の俗諦にしか成らない。仮有に対して・双遮・双照・という二重の

反省判断を行わないと中諦には成らない)それを常住不変の実体(私註 常住不変は・諸行無常にも

不断不常にも反する。常住不変こそ六師外道の『常見』《断見の裏返し》である。

不断不常の離二辺見でないと仏法の正見ではない。仏法で「常住」という場合は、常に法性論として・

不断不常の意で用いているのである。

『唯法・仮有法・の常住』ではなく『法性の不断不常の常住』論である。実体に就いてはすでに述べたとおり。

空や中を実体化するのは六師外道見だからである。万法を・常住不変の実体・とは見ないからこそ中諦へ

達し得るのであって、縁生法の中諦に実体など有得ない)とみます。

 たとえば、Aという人の肉体は仮和合で、新陳代謝を繰り返し、瞬間瞬間に変わっていきます(私註 これは

虚妄仮。仮諦ではない)。またAの心も瞬間瞬間に起こったり、笑ったりしています(私註 これも虚妄仮。空で

さえもない。ましてや空諦ではない)。しかし、この仮諦と空諦だけでは生命の真実の姿をとらえたとはいえず

更にそこに常住不変の生命(私註 常住不変の生命など有得ない。不変というのが特に悪い。不変ではなくて

不一不異・非如非異・なのだ。生死を通じてうつろい変わっていく中に・法性としての十界『変わらない十界法

性』だけが保たれていくのだ)見る事が出来ます(私註 見る事が出来ない。認識不可能。分別不可能。

ただ覚知するのみである)。すなわち、幼年の時、壮年の時、老年の時にも、

一貫して変わらないAという人格が存在します。

(私註 人格は変わる。当人のアイデンティティ《自己同一》さえも変わる。

一貫して変わらないのは、呼び名としての・Aという呼称・この《仮名》だけである)

このAをAたらしめている実在(私註 何らかの存在がAをAたらしめているのではない。

常ない無常の変化の相続だけがAをAたらしめているのである)「我」といい(私註 我・を説くのは六師

外道だけである。釈尊は、我・の存在を否定して・無我・を説いた。『無我なる相続』をする所を・

呼び名・呼称・として『我れ』《仮名我・我は但之名のみなり》と呼ぶだけの事でしかない)

この本質に目を開いていく私註 実体と本質は断見から生じたものであって・観察に関する虚偽と

推理の関する虚偽と・二重虚偽から生じた虚妄概念である。無い本質に目を開いていく事は不可能)

こと(私註 本質は誤った比量=推理判断知識であり、比量からは空や中は決して得られない。

思量『論法反省判断』からでないと中諦は得られないから、本質に目を開いても迷妄のままでしかない)

を中諦という(私註 中諦とはこんな科学論などではない。これは形而上学としてさえも誤っており、

俗諦にさえなっていない)のです。

 (以下本文6ページはあまりにも酷く、冗長で繰り返しでしかないので省略する)

 私達が仏界を現ずるときは、……仏の振る舞いとなり、自然に大宇宙のリズムに合致し(応身)

(私註 『宇宙のリズム』は極めて怪しい概念である。与えて言っても大宇宙には六道のリズムしかない。

だからこそ輪廻するではないか。四聖《二乗・菩薩・仏》のリズム・は反省者・反省自覚者・が発信源であって

宇宙の方ではない)……よくいう”全体人間”というのも、この無作三身の中にその実体がある

(私註 無作三身の中には如何なる実体も全く無い。

九界が無実体なの九界即仏界の仏界三身に実体が有る訳が無い。

九界に実体が在れば頑として根を張って変わらず…(不変体を実体というではないか)…仏界に成る事は

出来ない)といえましょう。

  ……以下略……

 (私註 以上全てが・反言語道断・反心行所滅・であり、全てが『他心の法』『他覚の法』であって、

「若し己心の外の法ありと思はば全く妙法にあらず麁法なり、……、一生成仏叶いがたし(一生成仏抄)・

この他・御書全編・一切経全部・竜樹・天台・等の一切の著述に違す)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

以上引用した本の一説について、赤字の部分は全て『六師義』の『内外一致』の一大邪義なのです。

それはもう一目瞭然、ゴテゴテ説明するまでもないでしょう。こればかりではありません、私達がこれまで

三十年来買わされ続けてきた万巻の書の全てが、どれも皆『内外一致の六師義思想』そのものの本であった

事にお気づきに成りませんか。『仏教哲学大辞典』からしてそうなのです。

正しい法門を教えるはずの大辞典が六師義を教えていた……、嘘と思う方は『妙法』の項でもなんでも、

大事と思う項目を牽いて御覧下さい。全部六師義ですから……。

書物ばかりではありません、雑誌等に連載された対話も、今まで聞かされてきた、講義・講演等の全てもが

そうなのです。恐ろしい事です。最近(昭和61年)でもこんな指導講演を聞かされませんでしたか。

 「そのようにお詫びの布教に励んだけれども、日興上人はなかなか許されなっかた。それは日興上人が

日尊の本質を見破っておられたが故である(私註 日興上人は在りもしない日尊の本質をどう見破られたので

しょうか……)……。こうした手前勝手な傲りの心こそ退転しゆく者の本質であることを、

ここで強く申し上げておきたい」。

この様に六師外道義を信じて述べていく事こそ「退転しゆく者の”本質”である」のではないでしょうか。

また「手前勝手な傲りの心」ではないでしょうか。六師義を教え込まれ・真に受けて『新時代の指導者に』なった

ら・成った方も成られて指導される側も・これ以上の災難は又と在るものではありますまい。

こういう『仏法の師弟観』を教え込まれて、あなたは果たして受け入れられますか。

願わくはもう一度信心の原点に立ち戻って再考してみてください。

我々と仏様(主・師・親)との師弟関係は『果位の師・待・因位の弟子』ですが、只今・人と人とで結んでいる

現存者同士での関係は『因位の師・待・因位の弟子』でして、「自身に於いては決して疑うべからず、

師法の二は疑いて後にまさに決すべし」(『弘決』)です。盲目受容は『信』ではないのです。

仏法においても・師弟関係というものは、互いに選び合ってこそ成立つものであります。

我々の場合は『一向・師にも非らず・一向・弟子にも非らず・という善知識』間で、先達と後生との間に・

宿縁開発して結ばれるものであります。

 仏法でのこういう師弟道はまず・師弟共に三宝(仏・法・僧)へ帰依するところに立脚して始まります。

妙法への信順……師弟相依一体での信順…(師弟不二とはこの事を指す。詳しくは観心本尊抄文段の通り)

がこれであります。「信ぜば即ち所聞の理・会し、順ぜば即ち師資の道成ず」(『文句』)でして、

この様にして成立した師資(師弟)の道において、師は下化双照行を弟子に振る舞い・資(弟子)は上求双遮行

(反省行)を師に提示して教えを乞う……こういう関係を結んで参るのでありますから、師には師としての・

自行化他・双照能化・の精進道が有り、資(弟子)には所化としての・自行化他・双遮向上・勇猛道が有り、

どちらか片方を欠いても師資の道・仏道の師弟道・は成立しないのであります。

こうなので、自分の師は自分で「果たして正師か邪師か」と疑って見極めてからでないと師には仰げないので

す。「疑い…(この『疑』は疑惑ではない。方法懐疑の事である)…て後にまさに決すべし」(『口決』)とはこの事

なのです。団体へ入会したから団体の長が『自動的に師となり』入会した自分が『自動的に弟子になった』ので

はありません。自動的に成立する師弟道など金輪際有得ません。 (自称師が)押し付けた師弟道ならば論外

であります。これ以上は話が余りにも長引きますのでこれで終わりに致します。

とにかく、六師義は人法共に仏法に非らざる一大邪義です。

どなた様も「世間の荘厳の文飾・無義の語」には惑わされる事無く、一切を御金言に任せて

一生成仏の大道へ立ち戻って精進せられん事を願うものであります。

…以上…

平成二年 十月

 

本書は複製を歓迎致します。必要な方はコピーするか印刷するかして、

一人でも多くの方々へ配布してください。《石田》


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