一念三千論

石田 次男

本日は石田先生に重要な法門である一念三千について教えていただきたく思います。

 それであれば最初にお断りをひとつ申し上げておかなくてはなりません。それは、一念三千に就いての御説明は、理的な部分は天台大師で尽きてしまって、日蓮大聖人による追加的御説明は一切遊ばされていない・・…という事です。

ですから説明を私が行うとなると天台大師の言葉しか出てこなくなります。これを文上のままに呑み込まれると困るのです。全部文底義で読んで頂かないと誤りますから最初にお断り申し上げて置きます。

 一念三千というと十界互具・百界千如・三世間で一念三千と成る訳ですが、これは大変難しく私達は何も解っていないと思いますのでぜひ教えていただきたく思います。最初に一念について伺い、次に十界・十界互具・十如是・三世間の順にお話を伺いたいと思います。

 まず、一念に就いてですが、一念には果位の一念と因位の一念とがある訳です。衆生各自の我が一念には果位の一念は無いから要らないのです。そして信ずる対象としては要るのです。

果位の一念と言えば、釈尊は五百塵点劫に即座一番成道してしまって、インドで法華経を説いた釈尊は果に因を包んだところの果位の一念になる訳ですが、我々はそうではない訳です。我々は因の立場での仏道修行ですから……。

 大聖人様は仏様で、果位の教主の立場でいらしゃる訳ですけれども、なおかつ因に果を包んだ所の因位を表に立てて本因妙という事で仏法を説ていらしゃる訳でしょう。我々は教主ではないのですから、自分についての果位の一念は無いから要らないのです。我々に必要なのは自分の因位の一念なのです。これが信の一念です。

因位とか果位とかいうお話の前にもう少し一般的な一念についてのお話からお伺いしたいのですが。

 それでは科学論にしか成りません。仏法には一般的な一念などありません。常に迷いの一念か悟りの一念かです。この為に因位と果位の立て分けをしておかないと一念の中身に入る事が出来ないのです。

 果位の一念という事になれば、まず一つには脱益の一念で釈尊の一念です。二つには下種の果位の一念で宗祖の御一念です。我々は逆立ちしてもお釈迦様になる事は出来ません。竜樹・天台になる事も出来ません。いわんや教主としての果位の日蓮大聖人になる事は絶対に出来ません。

 我々の場合には六即位においても理即・名字即・観行即・相似即・分身即・究竟即の中の名字即を中心とした修行ですが、それですら日蓮大聖人の名字即に比較したら単なる理即にすぎません。理即但妄の身です。我々は進んでも分身即までで究竟即にはなれないのです。

 因位の一念から始まって分身即までしか絶対に成れないのです。ですから自分にとっては自己の刹那陰妄(おんもう)の一念について三千を論ずる事しか出来ません。刹那というのは作用念の事なのです。客観化して対象化した一念の事ではありません。対象面ではなく作用面の事を刹那と言っているのです。作用面とは働きつつある刹那という意味で、過去の一念ではないのです。その作用面は陰妄のカラクリ(五陰の因縁仮和合のカラクリ)で働いて陰妄の結果を得るのです。

 それなのに「陰妄の一念から始まって悟りの一念を生む」というのが一念三千論なのです。信を条件として陰妄の一念が仏果を生むというのですが、その果は究竟即の果ではなくて分身即までの果なのが我々なのです。それが我々の一念の正体なのです。しかし分身即であったからと言っても、当体蓮華である事には変わりはないのです。

 天台では衆生の一念を《陰妄》という窓口から捕らえ、宗祖大聖人はその同じ陰妄念を否定することなく《名字無解有信の信》という窓口で用いられました。要するに「妙縁(御本尊)を頼りにして陰妄の一念から仏果をとりだす事が出来る」というその理論が一念三千論なのです。法の中から妙を取り出す事が出来ると言う話と一念の中から仏果を取り出す事が出来ると言う話とは全く同じ事なのです。

 一切法に就いて、仏法の法は必ず《関係法》(人が関係しつつある法)……しかも作用中の現念での関係法でして、決して客観法ではありません。ですからこれは西洋哲学の《実存》から実有性を削り捨てて、一時仮存という性格を与えた《実存法》です。南無妙法蓮華経の「法」という事は、総じて見れば森羅万象というふうに客観した法則のように見えるけれども、実は違うのです。必ず仏様の作用中の一念の十界を「法」と言っているのです。しかも九界の法の事を「法」と言っているのです。もっとつきつめれば迷いの一念の事を法といっているのです。そしてこの九界の法は我々としても仏様のそれと全く同じだ・と示されているのです。こういう因位の一念を南無妙法蓮華経の「法」と示しているのです。

 御本尊を信ずる因位の一念(つまり法)の中に「妙法」というまた異なった「仏果の法」が存立している・という話が南無妙法蓮華経という話なのです。妙法という話と南無妙法蓮華経という話と一念三千という話とは全く同じ事なのです。寸分も違わないのです。それを事の一念三千というのです。

 それでは一念三千という仕方で現出する南無妙法蓮華経とはどういう事かと言えば、中身を分解してみれば十界と十如と三世間になってきます。三世間を分解すれば五陰と衆生と国土の三世間になるのです。この中では五陰世間が一番面倒になります。

 五陰の陰の字の体は色受想行識の下の法の識法これが九界の一念(つまり体)であり、これから妙法を取り出せば仏界の一念になるという九界即仏界・仏界即九界の一念なのです。後々から振り返ってみれば九因に即した仏果の五陰という事が南無妙法蓮華経という事なのです。もっとつきつめて見れば仏界の色受想行識とという事が妙という事で・南無妙法蓮華経という事で・何も変わってはいないのです。我々は何か別のものとしてみていますが同じものなのです。教主大聖人の行果の五陰の識が南無妙法蓮華経という事ですから、その現れ方・縁起の順序が色受想行という事なのです。信心する我が身の場合・信力で御本尊様(色法)から受け取った妙法がどんな作用をしてどんな現れ方をするかが(因位の我々の)五陰問題なのです。

 むずかしいですね……

 当り前です。一念三千という事は理も事も非情にむずかしいのです。判らないのが当り前なのです。

 五陰というと、人間存在とか何か色受想行識が集まって出来ている、というぐらいが今までの認識でしたがその程度での理解では実は何も判っていなかったのですね。

 五陰というのは(実存の)一念の作用なのです。一念三千の一念とは只今作用中の現念を言うのですから、仏法は客観したら絶対に判らなくなってしまうのです。

 三世間も自分の一念について説かれたものなのでしょうか。

 基本は仏様の一念に寄せて衆生各自の一念を示し教えたもので、この意味での各自自分の一念について説かれたものです。五陰が正報で、こういう自分の一念の依報として衆生世間と国土世間とが説かれるのです。常に実存の依報として説かれるのであって、誰のにせよ各自自分の一念を離れた国土世間も衆生世間もありません。

 それでは衆生世間とは自分の事なのでしょうか。

 そうではありません。我々から見て現実に存立する色々な衆生の事を言うのです。社会的とも言えます。同じ衆生(一人物)でも、私から見た衆生とあなたから見た衆生とでは十界が違って出てきますよ。たとえば佐渡御流罪中の大聖人にとって阿仏房がいたでしょう。大聖人にとって阿仏房は諸天善神の働きをするわけでしょう。しかし阿仏房本人は自分が諸天善神だとは思っていないはずです。しかも、この阿仏房を平左衛門の方から見たら自分のやる事を妨害している訳でしょう。平左衛門から見れば阿仏房は魔になっている訳です。

 同じ阿仏房が、仏様からは天界に見え、平左衛門から見た場合には魔になってしまう訳です。同じ衆生が見る側の境涯によって諸天にも魔にもなるのです。そのように誰かの関係する一念によって同一体の依報の十界は皆違ってくるのです。

 衆生世間や国土世間というものは、そのように関係当事者の一念によって十界が皆違っているのです。万人に共通な客観的に固定した十界がある訳ではありません。実存法界であって、人ごとに違ってきます。そういう各人共に十界が違っている衆生世間・国土世間なのです。

 衆生世間も私は縦型に見るのかな、と思っていたのですが。

 そうではないのです。衆生世間は横なのです。横にバラ―ッといるのです。しかし、こっち(自分)が関係してくると衆生世間の十界が変化するところは縦と言えます。正報についてにせよ依報についてにせよ、十界論は自分の作用面について論ずる場合は横に並べる訳にはいきません。作用面ではこの時間にはこれ一つ、次の時間にはこれ一つと決まっているのですから、一つの時間に一個体についてバラ―ッと十界が同時に出る訳ではありません。

 自分についても他人についても十界の移り変わりという面から見れば誰でも縦になっているのです。本当に十界を論じようとすれば縦の論ずるしかないのです。横に論ずるのは単なる手段・方便にすぎません。その方便のままに論じたらアビダルマの「有論」のようになってしまいます。客観して科学的に見えるけれども間違いになるのです。十界は実存法でして、対象についての客観十界ではなく、当事者の一念の作用面についての十界なのです。衆生世間や国土世間の十界も、この当事者の一念の作用面が反映した十界なのです。

 そこでですね、仏界所具の地獄界と地獄界所具の地獄界とは同じものなのでしょうか。

 それは同じです。性質としては同じものです。

 そうしますと十界互具の互具が成立たないのではないかと考えたのですが……。

 それはどういう意味ですか。

 仏界が持つ地獄界と地獄界が持つ地獄界とが同じものだとすると、常に作用する現念は十界のどれかという事になり十界のみが実存するというように考えるのですが、……何か大きなカテゴリーがあってそのカテゴリーの中に細分化した(互具された)十界があるとしますと、仏界の地獄界と地獄界の地獄界は違ってこなければならないと思うのです。

 具体的な例では、借金に追われている人(地獄界)が居たとして身の置き所もない苦痛を受けていたとします。この人が「そうだ、俺には御本尊様があったのだ!」と気がつき唱題を始めたとします。唱題を続けるうちにその人の実存の世界が変わります。その人の住んでいる世界が娑婆から方便土なり実報土なりに変わったとします。すると借金そのものが無くなった訳ではないのに、その人の境涯の変化により借金取りに対する考え方に変化が生まれ、遅かれ早かれ意外な形で問題が解決する。

 このような事は現実には大変多いわけです。これが現実生活における一つの仏法の救いの原理になると思うのですが、やはり十界は同じなのでしょうか。

 その話は少し筋目が違った論議になります。私が言った意味は、各界所具の地獄なら地獄……それは「性質という意味(観点)から言えば全く同じだ」と言ったのです。

 あなたの今の話は流転の六道か本有の六道かの窓口からの議論です。たしかに流転の六道の地獄と本有の六道の地獄とはちょっと違います。流転の六道の方は抜け出し難いのです。しかし、地獄の性質はどうか・といったら同じです。問題を扱う窓口は一つではないのです。本有の六道も大事な問題となります。

 三重秘伝抄の中の如是性のところで「如是性とは十界の善悪の性・其の内心に定まりて後生まで改まらざるを性というなり」から、学会でよく言ったように「個人の性格は変わらない・個人に内在する性格(個人としての容れもの)は変わらない」と言うようになったのでしょうか。そうしますと先生の無自性の説と矛盾するように思われるのですが。

 それは解釈の意味が違うのです。如是性の性は個人の性質・性格などを意味したものではありません。学会のは誤適用です。本文では「十界の」とあるでしょう。十界そのものの個々の界の性の話なのです。各界の性は不変だが縁生した性だから無自性です。

 次に「改まざる」の解釈ですが、学会流の解釈では、範疇として変わらないのか・現実の生活として変わらないのか・あいまいではないですか。範疇として変わらないのは当り前です。我々は目いっぱい変化して変化しぬいたとしても地獄から仏界までの十種類しか変化する事は出来ません。変化の諸相は十種類しかないのです。その相についての性の話ですから、細分化してみれば、あの地獄この地獄と軽重はありますが、大雑把にまとめて見れば地獄は地獄で、地獄〜仏の十種類しかないのです。この大枠は変わらないでしょう。ですから範疇として変わらないという意味と、十界の性の定義として変わらないという意味に採るべきです。個人に属する性格の属性(キャラクター)と言っているのではありません。仏法には心理学とかが出てくる訳はないのです。

 性にも自性(本質の事)はありません。常無く変わるのは、地獄から餓鬼へ・という風に変わる点を言っている訳です。しかし我々の一念は相も性も十界の範疇をはみ出す事は出来ない。これが(三世変わらない)という意味なのです。如是相・如是性・如是体は十界の相・性・体でありそれ以外の相・性・体では絶対にありません。相は<一念の十界の相>と採るべきであり<人相の相>ではないのです。

 一念の十界の相ととるべきですね。

 もちろんその通りです。その相の事ですが仏界はどのような相かと言うと「相に非ず不相に非ずして如是相なり」とあります。

 「相ではなく」と相を取り上げながら言うのですからそれは常識的な相ではないと言う事です。では何の相かと言うと十界の相で、然も九界を包んだ仏界の相なのです。然も実体的な相ではないと言う・だから「相に非ず」と言い、縁起した相はあるので「不相に非ず」と言っています。我々が「実体的」にあると思っている相は「単に仮名(けみょう)だ」と言っています。相と言うのは縁起して出てくる仮有のもので、決して実有・実体ではありません。十界の相も縁起して初めて出てくるのです。誰かが地獄を現ずる前にその地獄の地獄相が先天的に在ったわけではないのです。相が先在して体が後出(こうしつ)したら変です。アプリオリ(先天的)な相は無いと言っているのです。

 先天的な相があればそれは実体相がある事になります。縁起した相つまり(縁生の相)しかないのです。仮有です。これと同じで「性」も実体などというものは無いのです。やはり仮有なる縁起した「性」だけがあるのです。「体」も実体の「体」ではなく仮有なる縁性の体が有るのみです。

 個人に属するガチガチに固まった実有の「相性体」が有るわけではないのです。相・性・体も佇まいにすぎません。仏界でさえもそうなのです。そして仏界はそれ(佇まいの相性体)が法性として永続するから「相性体が常住する」と教えられているのです。

 仏法では一切が佇まいと思えば良いのですか、どのような問題でも……

 そうです。事物を指して表現した所の・字に書いてある物とかは客観的にもある訳ですが、その物を客観して見ていても仏法は判りません。「諸法は必ず十界」でして、その「物の十界を見て採る」のが仏法です。物に即して実存十界ですから佇まいなのです。佇まいがどこまで続くか・という話は、無常か常住か不断不常か・という話になってくるのです。それは難しくなりますから今日の話題からはずします。

 実存を見るというのは難しいですね。

この質問はこの間も少し触れさせていただいたと思いますが、最近の私の考えでは、九界までの命は実存として感じられると思います。しかし仏界は実存として感じる事が出来ないのではないか・と考えるんですが……。つまり我々が当面する実存は実に九界で、その九界の中で仏界を求めて求めて求め抜いて行くと仏界が出てくるのではなく、自己の九界を見下ろした実存を感じたらそれが仏界ではないか・と思うようになったのですが……。九界の出て来るカラクリ即ち十如是を通して浮かんでくる九界のカラクリそのものが仏界なのではないか・と思うようになったのですが、いかがでしょうか。

 仏界の話はしにくいのです。地獄から菩薩界までの九界についてそのあらゆるカラクリが判ったらその判ったカラクリが理仏界です。でも事仏界ではありません。

 それは十如是と言う事ですか。

 十如是だけではなく全部です。十界のカラクリもあれば一念・十如是・三世間のカラクリもあります。それが判れば一念三千が判った事になり仏界です。ただし理仏界です。そのカラクリが・事はおろか理の分位でさえも判らないから皆・苦労しているのです。早い話が相・性と言う事ですら判らず苦労しているのではないですか、相に非ず不相に非ず・性に非ず不性に非ず……でしょう。判らないから苦労するのです。

 南無妙法蓮華経をやっていながらカラクリが判らんでしょう。判らないから「南無」や「妙」や「蓮華」が宇宙の方にあるように思ってしまうのでしょう。そして「南無妙法蓮華経は宇宙の大法だ」と思い込むのです。然し実際に宇宙の方にあるのは「法」の内の「依報の法」だけです。妙法の法とはどういう事か、一切法の体を法というそれすら判らないでしょう。

 一念三千は大変難しいのですけれど完璧な理解がないと利益は受けられないのでしょうか。また少しでも理解していけば例えそれが完璧でなくても分々の利益は受けられるのでしょうか。

 利益は理解が無くても受けられます。理解が伴えばもっと受けられます。理解するにつれて自分の気持ちが開けていくようになります。理解についてはまず自分の気持ちが地獄か餓鬼か畜生かを知る必要があるでしょう。それが十界の理解です。そして、その境涯を反省するところから仏道は始まるのです。それなのに創価学会は餓鬼道をよしとして金集めをしています。修羅界なのに得々としている輩が沢山いるでしょう。修羅界を悪道と思わずむしろおごり高ぶっている。国会議員などはその一例です。修羅界です。修羅界は悪道だというのは普通の価値観・それが良いというのは顛倒の価値観です……。

 話を元に戻しまして十如是の話に戻りますと、相に非ず不相に非ずですが……そうした相も性も体もいずれも仮名にすぎないという事です。仮名でありながらしかも能く事態を言い表すと言われています。次に・力・作ときて次が因ですが、因だけでは何も発生しません。必ず縁を必要とします。十界の法は縁起体だからです。

 判り易くする為の質問をさせて頂きますが、もし十如是を何か(十個のうちの何か)省いて良いという事になったら何が省けるでしょうか。異訳本の法華経に昔あったと聞いていますが……。

 絶対に十如是から何かを省く事は出来ません。三如是(相・性・体)を体として七如是(力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)を用として体用具足の一念ですから……もっと具体的にいえば一念の畜生界の十如・一念の菩薩界の十如……とこうなる訳です。十界から切り離した十如はあり得ないのです。「諸法は必ず十如・十如は必ず十界」です。しかも十界の一念は作用しつつある現念の一念です。ですから作用念から切り離した十如もあり得ないのです。

 対象我(対象念)ではないのですね。

 そうです。その作用現念に依報があって正報があるのです。つまり念(正報)は縁(依報)を得て初めて起こるだけなのです。一念三千は作用と対象という関係で見ると間違ってきます。三千については作用体と被作用体なのです。即ち依報と正報なのです。西洋哲学の言葉を使う時には気をつけませんと西洋哲学の概念につかまって間違ってしまいます。

この十如はすべて縁生による故に「空」と言われるものです。相・性・体……本末究竟等まで全く空なのです。十如の各支は空の上に浮かび上がってくる縁起の佇まいなのです。何と何が縁起したかというと、因は自分の生命の現念・この心業の因に対する被作用体のすべてが縁、その因と縁とが和合した、佇まいのカラクリのところ(内的運行経緯の所)が十如なのです。

十如の個々各支が縁によって生じたものでしたら、縁も十如をつくっていく何かの働きがあるのでしょうか。

もちろんです。ある訳です。十如是は十界を表すからくりです。十界を外面とすると、そう発生させる内面機構が十如というカラクリなのです。そのカラクリ自体がまた、縁生なのです。つまり、十如と十界とは縦型に相待していて、互いに縁起しあって両方が生じ(縁生)ているのです。縦型縁起の実存法な訳です。

十如は十界が出てくる能生の法と言う事は出来ないでしょうか。十界は所生、十如は能生と……。

そうも言えます。そのような言い方でも間違いではないでしょう。

本当に難しいと思います。しかし何がこれほど難しく感じさせるのでしょうか。

一つには我々の頭が実体論で出来ているからなのです。天台などの頭は最初から実体論で出来てはいないのです。縁起法門で出来ています。この両者のくい違いが法門を判りにくくしているのでしょう。人は言葉の問題から実体論に転落していくのです。言葉によって実体を作ってしまうのです。言葉の性質がそのように出来ているからです。

仏教は成立の初めから、実存しか問題にしていなっかたのですね。つまり、今我々が科学的世界観にも基いて見ているようなものではなくて、一人称世界に於ける実存の世界しか問題にしていなかったのですね。

そうです。「所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く」(一生成仏抄)です。爾前教ですら「三界一心作」といって「皆一心の所作だ」と言っているでしょう。一心一念がすべての基本なのです。万法は一心現念との関係法ばかりです。

そうしますと、人間がどこで生まれて何歳で何をして・などと言う横型の見方も認識も仏法者には無かったのでしょうか。

そうではありません。仏法者でもそれ(横型の見方、つまり俗諦・世法)(枝葉としては)あります。ただ、思惟の中心手段とはしないだけです。有った上で破り捨て、化他の時には再採用して方便に使いもするのです。

それらは世法・世俗では有ります。従って世俗で生活している人間は考え方が横型です。しかし仏法で暮している人間は違うのです。横型思考は付け足しで根本は縦型反省論法なのです。我々はあまりにも世俗の執着が強くて横型思考の癖が抜けていません。

作用我か対象我で判定すると、十如はどちらの方なのでしょう、十界は両方にかかってくるのでしょうか。

十如は一念の作用我について論じた道理(法理)です。作用の他に対象なく対象の他に作用なしです。その上で作用我は本、対象我は迹です。十如是には因の側と縁の側と両方があり、十界が因縁生起する法理です。業作の法理です。関係性……実存関係の論理です。

相性体は因の側です。力・作も因の側について言うのですが相手(待縁)なしでは力も作も出て来ません。相性体だけの段階ではまだ相手()はないが、力・作になると相手(待縁)が出て来ます。因はこちら(正報・智)で、縁は相手(依報・境)でしょう。そして果報を生みます。果報になると受け手が色と心に別れるのです。果は、心で受け取ったところが果で、身(色法)で受け取ったところが報、そして報が相に帰るのです。本末究竟して等しく、相に帰った報が次の点位の如是相になるのです。

十如の十個はみな縁生の実存で空です。しかもみな仮名です。一念作用の運動のカラクリですから十如は、力・作の段階から相手(待縁)が出てくるのです。この相手()と我が心とを、ともすると二元に固定してとらえがちですが二元に固定してはいけません。法華経は相手(待縁)以外に心(因体)がないという意味で「月こそ心よ」と言っている事を忘れてはならないのです。

心は一元(冥合)とも表れ、二元(依正)とも表れるのです。心は正しくは不一不異であって、どちらが中心でどちらが端という事もないのです。ただ実存作用我()を貫く不変真如の一理が二元に表れたり一元に表れたりするだけです。

どちらも不変真如の一理なのです。これを一と決めつけるのも不可・多と決めつけるのも不可です。真如は不一不多なのです。

不変真如の理とは一念のことを言っているのですか。

この場合では真如の理とは一念が具えている法則という意味です。人が不変真如の心を発動しないと実存宇宙(法界)は不変真如にはなりません。実際に発動したところが随縁真如です。人の生存世界は己心の法界でして、いつでも境智境智……と因縁仮和合が続く実存なのです。この生じた十界は、こちら()側だけで生じたと決めつける訳にはいきません。

そこのところを「一に非ず二に非ず」と言っているのです。又それを「法の真寂の義」とも言うのです。分別を超えた妙なのです。不可思議なのです。考え思う事が出来ません。

この不可思義は仏様から見ても不可思議なのですか。

そうです。そこを「無分別」と言います。不可思議なのですが体現する事が出来ます。現ずる事が出来る証拠は御本尊です。御本尊様も書かれて見えているだけが全部ではありません。人間が考えられないものまで含んでいるのです。

「考えられないものは認識できないじゃないか」と言っても、認識なんか出来なくても反省自覚すれば良いのです。感応できれば良いのです。そこを本感応とか、本神通とか言うのです。要は津々と御題目を上げる事です。

以上

昭和六十三年十月


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